バグダディはカリフなのか
イスラム国はいまや、イラク、シリアだけでなく、リビアにも勢力範囲を持っている。その指導者アブーバクル・アルバグダディの演説に耳を傾ければ、今後の方向性が読み取れる。彼が初めて公表した演説は世界に衝撃を与えた。二〇一四年七月四日、イラク第二の都市モスルのモスクでこう呼びかけた。
「イスラム教徒よ、急げ! アッラーに帰依する宗教とともに移住せよ」
このイスラム国への移住について、聖典コーランを引用し、その意義を強調した。
「そしてアッラーの道において移住する者は、大地に多くの避難所と豊かさを見出す。また、アッラーと彼の使徒の許への移住者として自分の家から出た者は、その後死が彼を捕えても、彼の報酬はアッラーに対して確定した。(後略)」(四章女性一〇〇節、以下、コーランの引用はすべて中田考監修『日亜対訳 クルアーン』による)
続けて、「我々が必要な人材は、イスラム法学者とともに、軍事、行政、サービスの専門家、医者、あらゆる分野のエンジニアである」とイスラム国に移住してほしい具体的な専門職種を述べた。極めて実務的な人材募集の呼びかけであった。
日本の報道では、イスラム国のリクルーターによって、若者が洗脳され、欧米から移住している様子が頻繁にとりあげられているが、やみくもに勧誘しているわけではない。彼らの国家建設に有為な人材を欲していることが、演説からわかる。
では、彼は自らをどう位置付けているのか。彼の呼びかけにイスラム教徒が応じるべき義務はあるのか。
演説に先立つ六月二九日、イスラム国の報道官アブ・ムハンマド・アルアドナニからの発表が、その答えを示している。重要なポイントは三つ。①従来の「イラクとシャーム(シリア)のイスラム国」(英語の略称ISIS)から名称をイスラム国に改めること。②同国はカリフ制を採用すること。③その指導者バグダディの真の名と系譜はカリフ・イブラヒームであること。
カリフとは「ムハンマドの死後、イスラム教徒が選んだ指導者(後継者、代理の位)」のことで、カリフ制とはカリフに主導されるイスラム共同体(ウンマ)を意味する。高校で世界史をとった人なら、「初代カリフのアブー・バクルから第四代カリフを正統カリフと呼ぶ」と習ったことを覚えているかもしれない。では、③にあるように、バグダディが本当にカリフなのだろうか。実はイスラム教には誰がカリフかを決める公式機関は存在しない。だから、公式見解も存在しない。逆にいえば、彼をカリフと認めたイスラム教徒ひとりひとりの心のなかで彼はまぎれもなくカリフなのである。次に浮かぶ疑問は、なぜ②のカリフ制宣言と同時に、わざわざ国名を①のように変えたのか、ということだ。その答えも演説にある。
「お前たちの勝利によって、何世紀も空位であったカリフ制が回復したのだ。アッラーが長年のジハードと忍耐を経たジハードに励む兄弟たちに勝利を与え給うた。それゆえ、彼らはカリフ制を宣言し、その責任者としてのカリフを置いたのだ。これ(筆者注:長年失われていたカリフ制回復)はムスリムにとって義務である」
補足しよう。バグダディはここで要するに武力闘争に勝利したことによってカリフ制が復活できたといっている。この宣言の根拠はスンナ派のイスラム法学にある。それによれば、戦争で実効支配を勝ち取った指導者には、カリフ位が認められる。そして、カリフ制を宣言した途端、「イラクとシャーム(シリア)の」という地域的な限定は意味をなさなくなる。カリフ制の世界は、領土の概念を超えて、地球上のイスラム教徒の精神の中に存在するからだ。つまり、バグダディをカリフと仰ぐイスラム教徒がいる場所は、そのままイスラム国の「飛び地」となる。
演説から見える未来
ここで、バグダディはコーランをあらためて引用する。「まことに大地はアッラーのものであり、彼の下僕たちのうちのお望みの者にそれを継がせ給う(後略)」(第七章高壁一二八節)
地球の主権はアッラーにあることを強調したうえで、バグダディは自らの言葉でイスラム国の歴史的な位置づけを解説する。
「世界のイスラム教徒はカリフが空位になった後、敗北を続けた。それ以来、ウンマは存在を停止してしまった。だからこそ、不信者がウンマを弱体化し虐げ、世界各地で優位性を維持し、われわれの富と資源を強奪し、権利を剥奪した。(中略)彼らが広めるスローガンには、目くらましで欺きの言葉がちりばめられている。それらをいくつか列挙すれば、文明であり平和であり、共存であり、自由であり、民主主義であり、世俗主義であり、バース主義であり民族主義であり、愛国主義である」
フセインやカダフィが信奉した、アラブ民族主義や近年、アラブの春を主導した民主主義が真っ向から否定されている。「カリフ制のイスラム国こそがムスリムにとって、威厳、権力、権利、主導権をイスラム共同体に取り戻す唯一の主体である」とバグダディは演説で強調する。
フセイン、カダフィの歴史観はアラブ民族主義に端を発しながら、個人的な価値観を前面に押し出している。だから、指導者亡き後、それを引き継げるものは皆無である。一方、バグダディの場合、すべての発言は世界に一つしかない聖典コーランを逐一法源としている。仮に彼が亡くなってもその世界観が存在しなくなるわけではない。イスラム世界のどこかから後継者が永続的に登場するメカニズムが内包されている。つまり、演説から次のことが予見できる。ある地域と民に限定されたアラブ民族主義が完全に途絶えた今、イスラム主義のグローバル化時代がこれからも続くだろうことが。その時代とは、バグダディが不信者と名指した民主主義、世俗主義、愛国主義――いうなればわれわれが近代以降、自明とみなしてきた世界各地の「国民国家」とのグローバルな戦いを意味する。それはまさに現在、起こっていることであり、止むことはない。