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カダフィを動かしたアラブ民族主義

©Yu Nagaba

 アラブ諸国の指導者のなかで最長の在任期間を誇ったのがカダフィだ。一九六九年、二七歳の若さで起こしたリビア革命で権力の座についてから、反対勢力に殺害された二〇一一年まで無数の演説を残した。

 カダフィが青年期に影響を受けたのはフセインと同様、ナセルだ。カダフィはリビア革命についてナセルの著書『革命の哲学』こそが「インスピレーションであり、青写真だった」と語っている。

 ナセルが一九五二年にエジプトで起こした革命によって、実現しようとしたのは、アラブ民族主義である。その思想を説明する前に、それが出現する背景となった、アラブ社会の「敗北の歴史」を述べておこう。それは次のような「歴史」だ。

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 イラクから北アフリカに広がり、アラブ語を話すことをアイデンティティの核とするアラブ民族は、一〇〇〇年近くも非アラブ系のセルジューク=トルコ、オスマン帝国の支配を受け、オスマン帝国滅亡後も、西洋列強による植民地支配によって分断され、辱めを受けてきた……。

 ここで浮上するのが次の問いかけだ。ではなぜ、かつて隆盛を誇ったアラブ文明はこうも衰退してしまったのか。

 知識階級が出した、その問いへの答えがアラブ民族主義であった。その思想は次のように要約できる。

 本来、文化的・政治的・宗教的に一つであるべきアラブ民族が統一されていなかったがゆえに弱体化し、西洋列強の帝国主義に敗れた。そこから脱するためには革命を起こさなければならない。まず、帝国主義によって操られる傀儡政権(多くは王政)を打倒する。そして、独立した各国が相互に政治統合してアラブ世界を統一する。それこそが、アラブ文明を復興させる唯一の方法である……。

 加えて、その経済政策としては社会主義が掲げられた。帝国主義は、西洋列強―それと結託し私腹を肥やす国王とその取り巻き―貧困にあえぐ民衆というヒエラルキーを作り出した。その構造を変革するためには、国王とその取り巻きから私有財産を取り上げて国有化し、民衆に再分配し、格差を是正しなければならない。これらの政策を支えるイデオロギーとして社会主義が採用された。

 このアラブ民族主義は、一九四八年のイスラエル建国を機にアラブ諸国に広がり、ナセルの思想と行動を通じて、ナセル主義となり、フセインやカダフィに絶大な影響を与え、バース主義も生みだした。「バース」とは「ルネサンス」を意味するアラビア語で、バース主義は、アラブの伝統的な価値の復興を試みることで、アラブ民族の新しいアイデンティティを築こうとした。フセイン率いるバース党の名前は、このバース主義に由来する。

 カダフィはそうした考えを小中学生時代よりエジプト出身の教師から学んでいた。その素地の上に英国への留学体験が積み重なり、カダフィはアラブのアイデンティティに本格的に目覚めた。当時をカダフィはこう振り返る。

「帝国主義の英国はアラブより進んだ社会だと思って留学した。だが、その腐敗をみて自分たちアラブの価値観、理念、社会特性の素晴らしさに自信を取り戻した」

 カダフィはやがてアラブ民族主義者、アラブ社会主義者として革命を起こす。しかし、次の目標であるアラブ統一が挫折した後、新たな統治理論に移行した。「第三国際理論」である。それを演説でこう解説する。

「物質主義者の資本主義と無神論者の共産主義の双方を否定する人々に示す新たな道を第三国際理論とわれわれは呼ぶ。この道とはワルシャワ条約機構と北大西洋条約機構間の危険な対立(筆者注:東西冷戦のこと)を忌み嫌う諸国民のためのものである。この道は世界の全国民はアッラーの支配のもとでみな兄弟だと信じている人々のためのものである」

 アラブという民族的枠組みを超えた、独自の革命運動への転換である。

 二〇一一年、打倒運動が巻き起こるさなかでなされた最後の演説でカダフィはこう語りかけた。

「私の祖父は一九一一年の戦い(筆者注:伊土戦争。オスマン帝国支配下のリビアとイタリア間の戦争)で殉教者として命を落とした。私はこの国から去りはしない。(中略)私は大統領より偉大な革命家であり戦士である。イタリア(筆者注:リビアはイタリアの旧植民地)は帝国を築いたが、リビアの地で崩れ去った。(中略)そして、リビアは先頭に立って、アフリカ、南米、そしてアジア、つまり全世界を牽引していくのだ」

 この演説の数日後、カダフィは殺害され、資本主義でも共産主義でもない、彼の理論は崩れ去った。かつて、カダフィは「私はここリビアでユートピアを作った。人々が本に書くような想像上のユートピアではなく、具体的なユートピアである」と演説で誇ったが、リビアは現在、ユートピアどころではない混迷を極めている。