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大世界史2015「イスラム国」指導者の歴史観

フセイン、カダフィ、バグダディ……。演説から指導者の世界観を探る

2015/06/02
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 現在、イスラム国の勃興を軸に中東情勢が激しく動いている。事件が起こるたびにマスメディアで専門家によって様々な解説がなされる。しかし、どんな解説を聞かされても、ほとんどの日本人は、あまりピンと来ないだろう。中東の指導者や民衆が行動するときに参照する、あるいは無意識に影響される歴史観を共有していないからだ。

 ある国が潜在的に持っている歴史観をわかりやすい形で民衆に示すのは指導者の役割である。それによって、民衆は自分たちが現在、歴史のどこに位置しているのか確認でき、将来の方向性が見通せる。だから、指導者の演説に耳を傾けることは、ある国の歴史観を知る入口であり、近道である。

 しかし、日本のメディアは、中東の指導者の肉声をほとんど伝えない。イスラム国の指導者バグダディはおろか、四年以上も内戦状態にあるシリアのアサド大統領の声も届かない。フセイン、カダフィ、ビン・ラディン、ベンアリ、ムバラク……。ここ十数年で続々と権力の座から引きずりおろされていった指導者の肉声は、ほとんど日本に聞こえてこなかった。

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 彼らはどんな歴史観を吐露したのか。歴史上のどんな英雄にあこがれているのか。自国が目指すべき模範としてどの時代を思い描いているのか。どんな歴史に言及することで民衆の心を掴もうとしているのか。

 指導者たちの演説に耳を傾けることで、それらが見えてくる。ここではフセイン、カダフィ、バグダディの三人の指導者の歴史観を解き明かしていく。それは日本人の中東理解にとって、必要不可欠で有益な作業になるはずだ。

フセイン憧れの英雄とは?

©Yu Nagaba

 イラクを一九七九年から二〇〇三年まで大統領として統治したサッダーム・フセインからみていこう。彼がヒーローと崇め、統治者としてのロール・モデルとした歴史上の人物はネブカドネザルとサラディンだ。

 ネブカドネザル(在位紀元前六〇五~紀元前五六二)は新バビロニア王である。新バビロニアは南北に分裂していたユダヤ人国家、イスラエル王国とユダ王国を次々に征服し、ユダ王国を滅ぼした際には、多くのユダヤ人を捕え、バビロニアに移住させた。世界史の教科書にも書かれている「バビロン捕囚」である。この出来事について言及した演説にはフセインの歴史観が如実に現れている。

「ネブカドネザルの功績で重要なのは、アラブ人にはパレスチナ(筆者注:現イスラエル国領土のこと)を解放する能力があることを示してくれた点だ。彼がユダヤ人捕虜をパレスチナから追放し、イラクに連れてきたように。この故事を思い出すたびに私は、アラブ民族、とくにイラク人民にユダヤ人からパレスチナを解放する歴史的責任があることを想い起こす」(以下、演説はすべて筆者訳)

 そして、「サッダーム・フセインこそは、ネブカドネザルから正統な血筋を継ぐものである」と繰り返し述べ、我こそは敵国イスラエルより強い、倒す資質がある、なぜなら、祖先が倒したからだ、という単純な論理を前面に押し出す。

 一方、サラディンについて、フセインはこう語る。

「神に誓って、私はこんな男のようなことができることを夢み、望んでいる。どんな男にとっても彼が果たした役割を夢みられることは名誉なことだ」

 サラディンとは、アイユーブ朝(一一六九~一二五〇)を創始したサラーフ・アッディーン(一一三八~一一九三)のことである。一二世紀後半に十字軍からイスラム教の聖地エルサレムを奪還したアラブの英雄だ。

 フセインが彼に憧れるのは、湾岸戦争など、欧米列強と対峙してきた自己像と一致するからだ。サラディンを英雄視する理由はそれだけではない。サラディンは、その外交・軍事的能力によって、当時、分裂していたかつてのイスラム帝国(アッバース朝)の版図のかなりの部分を回復し、統一した。フセインは自分が率いるバース党の政治目標である現代アラブ統一と、このサラディンの偉業を重ね合わせていたのだ。ちなみにサラディンの生誕地ティクリートはフセインの故郷である。

 しかし、歴史上の人物に思いを馳せるだけでは、現実の政治は行えない。フセインは青年期にアラブ統一の思想をナセル(一九一八~一九七〇)に、実践的な統治手法をスターリン(一八七九~一九五三)に学んだといわれる。ナセルは一九五二年にアラブ民族の統一を唱え、エジプトで反王政革命を起こし、後にエジプト共和国第二代大統領となった人物である。フセインはスターリンのように一党独裁を推し進めるとともに、自らを個人崇拝の対象とし、反対派を粛清した。そして、社会の隅々にまで党の指導を行き渡らせた。フセインは大統領在任期間を通じて、国営工場の人材配置に至るまで事細かに指示を出していた。ソ連崩壊後も、イラクには中央集権的な社会主義が残っていたのだ。

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