第一次大戦のきっかけは、サラエボ事件です。日本の高校教科書では、それより前の英仏露の三国協商対独墺同盟という二大陣営の対立や、各国の植民地獲得をめぐる角逐が重大な要因と説かれています。これは誤りです。

 この協商対同盟といっても、第二次大戦後の米ソ対立のようなイデオロギーをも含んだ先鋭な対立ではありませんでした。また植民地をめぐる角逐が本国間の戦争にもちこまれることはまずありません。実際に世界戦争の引き金となったのはテロ事件だったのです。

 サラエボ事件は、セルビア人青年が、オーストリアの皇太子、フェルディナンド大公と夫人を射殺した事件です。セルビアは新興独立国で、バルカン半島の内陸に位置し、海への出口を求めていました。犯人グループは、セルビア軍将校によって参加をもちかけられ、実行犯を含む三人までもがセルビア軍営内で訓練を受けています。ピストルや爆弾といった凶器も全てセルビア軍の制式兵器でした。セルビアの狙いは、オーストリアとの戦いに「スラブ同胞愛」を訴えてロシアを介入させ、ロシア・セルビア連合軍によるオーストリア首都ウィーンの占領、ボスニア・ヘルツェゴビナ州併合を勝ち取るという途方もないものでした。ちなみに、こうした国家ぐるみの疑惑が確認されたのは、一九九〇年代、ユーゴスラビア紛争後のことです。

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 現在、テロ行為に対し、国家が司法制裁や武力行使することを「報復の連鎖」などと批判する人もいますが、全くの愚論というべきでしょう。他国要人に対するテロ、国際テロは戦争に準じる行為なのです。

 さらに、この事件を世界戦争にまで発展させたのは、官僚システムの硬直化でした。

 オーストリアがドイツの協力を求め、セルビアに対する作戦計画を始動させたのに対し、ロシアの措置は激烈で、数百万の大陸軍を編成する総動員下令で応えました。直前までロシアのニコライ二世は動員を取り消そうとして閣僚にはかりましたが、その答えは「不可能です」でした。

 それに対し、さらに突拍子もない手段に出たのはドイツでした。ドイツにはシュリーフェン・プランという作戦計画がありました。これは仏露による挟撃を警戒、その徴候があれば、先んじて自動的に開戦するという計画だったのです。この作戦にのっとりドイツは、あくまで牽制に過ぎないロシアの総動員に対して、ベルギー経由でフランスに攻め込みました。軍官僚の決定をドイツの皇帝すら止めることができなかったのです。

 誰もが望んでいなかった第一次大戦を避けるには、三つの重大な契機がありました。ひとつは、オーストリアが事件の処理に時間をかけず、すぐさまセルビアの首都ベオグラードを占領し、テロ組織の摘発と壊滅にとどめておけば、死者すら出さず解決できた可能性があります。第二はロシアの総動員下令をニコライ二世が自重すること、第三はドイツがシュリーフェン・プランを修正または改変し、総動員だけにすることでした。後手後手の対応と、官の肥大がヨーロッパ世界の崩壊を招いたのです。

 では、第二次大戦はどうだったのでしょうか。直接のきっかけは、ドイツのポーランド侵攻でした。それまでイギリスは、オーストリア併合やチェコのズデーテン地方割譲によってドイツに極めて宥和的でしたが、ここで忍耐の糸が切れてしまいました。

 しばしばヒトラーの世界征服への野心や、それに対する英チェンバレン首相の宥和外交が第二次大戦の原因とされますが、第一次大戦と異なり、第二次大戦を避けることは難しかったでしょう。ヴェルサイユ条約は、ドイツの領土を大幅に縮小しましたが、その結果、多くのドイツ人居住地区の帰属が不安定なままになってしまったからです。ヴェルサイユ条約の負の遺産としては巨額の賠償金が強調されますが、もともとが非現実的な取り決めで、一九三二年のローザンヌ条約により事実上帳消しになっていました。

 このドイツ人居住地区問題を解決するには、独ソ戦をまたねばなりませんでした。その結果は、戦争末期、ソ連軍によるドイツ人への暴行と強制的な排除という悲惨なものとなりました。