『戸籍と無戸籍』(遠藤正敬 著)

 キリストは神の子。でもキリスト教の神は生身ではない。血液も精子も有すまい。なのに地上に子をなせる。超越的不条理だ。しかし、人がいったんその不条理を受け入れ超越を現実に入れ込めば、聖や貴といった崇高な価値が血筋と切り離されうると容易に考えるようになるだろう。その意味で、ある民族が、キリスト教、もしくはキリスト教に類するものの洗礼を受けたか受けなかったかはとても大きい。血筋以上に信頼できるものを持てるか持てないかがそこで分かれてくる。肌の色が白くても黒くても、母語が違っても違わなくても、同じアメリカ人とか同じフランス人とか思える国もあれば、どうしてもそういう仲間意識を育てられない国もある。キリストを持たない国はいつまでも血筋で考えるのである。

 血筋による一味同心以外に、国民統合のための有効な論理を作れないで今日までひた走ってきた国。それが日本。著者の立場だろう。何しろ天皇の国なのだ。天皇は万世一系の血統の神話に支えられてきた。その天皇を中心に日本は「日本的近代国家」をデザインした。明治維新は西洋化革命であると同時に王政復古だった。天皇親政の古代を現代に蘇らせるのも明治の大テーマだった。

 そこで実際蘇ったものに戸籍制度がある。「大化の改新」は公地公民制を推進した。日本の土地も日本の民もすべてを天皇の親政下に置きたい。実際に治めるには完璧な台帳が必要。人間の台帳は戸籍と呼ばれた。個人でなく家を単位とした台帳。民のひとりひとりは家族と血筋の中に記録される。この制度をふまえて明治政府は現代に受け継がれる戸籍制度を作った。親子関係、血筋を追える台帳。先祖にも子孫にも親戚にも姻戚にも、どこまでも辿れるように国民の台帳を作り続ける。この仕方は、家族や血筋の関係よりも個人のデータだけ把握すればよしと考える近代の多くの諸外国の国民登録制度と明らかに異なる。人の単体の集積で国民をデータ化するのと、血筋のネットワークで同じことをするのとでは、哲学が全く違う。近代日本は熾烈なまでの血統主義を貫いてきた。

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 なぜか。遠藤の意見に従えば、小が大を模し、小が大に馴化されるように、明治政府が仕組んだからということになるだろう。日本人は、万世一系の皇統をスケールダウンしたかたちで、自分の家の伝統を戸籍からイメージするのだ。家の血筋の中でこそおのれのアイデンティティを発見するのだ。その背景を著者は微に入り細を穿って明らかにする。

 最近は天皇家の男系・女系などの議論がかまびすしい。しかし日本文化を律する血統主義と戸籍制度をふまえず、「他人事」のように語っていては不毛に終わるだろう。我々の内なる血統主義が問われている。本書は日本の肺腑を抉りだす。

戸籍と無戸籍――「日本人」の輪郭

遠藤 正敬(著)

人文書院
2017年5月20日 発売

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