いまから105年前のきょう、1912(明治45/大正元)年7月30日、明治天皇(当時59歳)の崩御が宮内省より発表され、元号は「大正」と改められた。

明治天皇 ©getty

 じつは明治天皇の崩御した正確な日時は判然としない。宮内省の公式発表では7月30日午前0時43分とされたが、当時、宮中に詰めていた内務大臣の原敬(のちの首相)は、7月29日の日記のなかで「午後十時四十分天皇陛下崩御あらせらる」と記し、また海軍次官の財部彪(たからべたけし)は、やはり同日の日記に「実際ノ崩御ハ十時四十三分」と記している。いずれにせよ、天皇の崩御は、実際には29日の夜半であることはたしかのようである。公式発表ではその時間を遅らせ、30日とされたのは、践祚・朝見・改元などの儀式の時間的余裕がなかったためとみられる(『国史大辞典』吉川弘文館)。

 天皇の重態はその10日前、7月20日付の官報号外で報じられた。以来、皇居の二重橋や、全国の郷社・県社には天皇の平癒を祈願する人々が集まった。一方で、行政指導により歌舞音曲が停止され、江戸時代より続く両国の川開きの花火大会(現在の隅田川花火大会)をはじめ多くの興行・催し物が中止となる。自粛はさらに高じて、皇居近くを通る電車が音を出さないよう、線路に襤褸(ぼろ)を敷くという方策がとられるほどだった。

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 崩御を受け、国内のみならず海外の新聞も明治天皇への賛辞と哀悼の意を表した。英紙『モーニング・ポスト』は、「明治天皇の治世における日本の発展は、世界の歴史上その類例を見ないほど急速にして、かつ目ざましいものであった」と伝えている(大濱徹也『乃木希典』講談社学術文庫)。明治天皇の大喪の礼は、同年9月13日に行なわれ、遺体はその2日後、京都の伏見桃山陵に葬られた。陸軍大将の乃木希典が天皇のあとを追い、夫人とともに殉死したのは、大喪の当日のことである。