去る4月21日、今上天皇の退位をめぐる有識者会議の最終報告書が、安倍首相に渡された。退位の時期は2018年中となる見通しで、その際には退位の儀式も検討されているという。実現すれば、江戸時代の光格天皇以来、6代ぶりの天皇退位となる。その光格天皇が退位したのは文化14年3月22日のこと。この日は、西暦では1817年5月7日で、ちょうど200年前のきょうにあたる。
当時としては前例のない39年の長きにわたり在位した光格天皇(当時数え年で47歳)は、この日、上皇の御所となる仙洞(せんとう)御所(当時の呼称は桜町殿)に入り、皇太子恵仁(あやひと)親王(のちの仁孝天皇)に譲位した。翌日(旧暦3月23日)、天皇が退位して烏帽子・狩衣を初めて着用する儀式である「布衣(ほうい)始め」が行なわれ、翌々日(同24日)には、光格天皇に譲位後の尊称となる「太上(だいじょう)天皇」の尊号が贈られた(以上、日付は藤井讓治・吉岡眞之監修『光格天皇実録 第三巻』ゆまに書房にもとづく)。以後、光格上皇は1840(天保11)年に亡くなるまで、霊元天皇(在位1663~87年、院政は~1693年)以来となる院政を敷く。
光格上皇は天皇在位中より朝廷権威の強化に執念を燃やし、さまざまな神事・朝儀(朝廷の儀式)の再興と復古に熱を入れた。1789(寛政元)年には、天皇が実父の閑院宮典仁(すけひと)親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に承認を求めるも拒否され、一時、朝幕関係が緊張する。「尊号一件」と呼ばれるこの事件は、「禁中並公家諸法度」に規定された御所内での座次(席順)を理由に起こった。同法度では、親王が太政大臣・左大臣・右大臣の三公の下に位置づけられていた。それを光格天皇は典仁親王が三公の上に座れるよう、太上天皇の尊号を贈ろうとしたのである。
光格上皇は生前、公家の教育振興にも熱心だった。その遺志は没後、1847(弘化4)年、学習所(のちの学習院)の開校として結実する。なお、「光格天皇」とは没後、その生前の功績を讃えて贈られた諡号(しごう)である。じつは歴代天皇のうち、冷泉より後桃園まで56代のあいだ「天皇」号は中絶し、代わりに「~院」という院号が用いられていた。そこへ874年ぶりに天皇号が贈られたことに、人々は驚いたという(藤田覚『幕末の天皇』講談社学術文庫)。
このように光格天皇は、没後にいたるまで、天皇や朝廷の政治的権威を復活させるのに大きな役割をはたした。のちに孫の孝明天皇が強い発言力を持ち、幕末の政治動向に大きな影響力をおよぼしたのも、光格天皇の業績なしにはありえなかった。