©山田一仁/文藝春秋

 いまから30年前のきょう、1987(昭和62)年8月9日、プロ野球・中日ドラゴンズの新人投手・近藤真一(現・真市。当時18歳)が、本拠地のナゴヤ球場での対読売ジャイアンツ戦にて初登板し、相手チームからヒットを出さず無得点に抑えるノーヒット・ノーランを達成した。新人の初登板でのノーヒット・ノーランはプロ野球史上初、米メジャーリーグにも例がなかった。

 セ・リーグには予告先発のなかった当時、巨人の王貞治監督は試合前、「近藤はないんじゃないの」と語っていた。当の近藤も、前日に一軍に初めて加わったばかりで、先発は予想外だったが、投手コーチから「行けるか」と言われ、驚きよりも先に「行きます」と答えたという。

 中日は1回に3点を先制、近藤はこれをバックに無安打投球を続ける。打線がさらに3点を追加した5回終了時、先輩から「狙ってみろ」と言われ、「いっちょう狙うか」とその気になった。9回、巨人の鴻野淳基が三塁にゴロを転がし、スタンドからは悲鳴が上がるも、落合博満(このときロッテから中日に移籍して1年目)が懸命にさばき、間一髪アウトとする。このあと、近藤のカーブを篠塚利夫(現・和典)が見送りゲームセット。その瞬間、中日のベンチからは全ナインが飛び出し、ルーキーを出迎えた。試合後のヒーローインタビューで近藤は「大変なことをやってしまった」「記録よりも自分の投球ができたことがうれしい」と語った。

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 近藤真一は地元愛知の享栄高校で2度、甲子園に出場。前年の同日には、唐津西高(佐賀)を相手に1安打完封の快投を演じていた。その年秋のドラフト会議では、5球団が1位指名するなか、就任まもない星野仙一監督が交渉権を引き当て、中日入りする。星野はこの日、「強運で射止めた黄金ルーキーのデビューは、それにふさわしい場面で」と近藤を先発に指名したという(『中日新聞』1987年8月10日付)。

 近藤はこのシーズンに4勝、中日がリーグ優勝した翌88年には8勝したものの、しだいに肩やひじの故障に悩まされるようになる。89(平成元)年には左肩手術のため戦線を離脱、90年の復帰後は勝ち星を上げることなく、94年に現役を引退した。このあと、中日のスカウトなどを経て、2003年からは、二軍に異動した04年を除き、一軍投手コーチを務めている。2014年には息子の弘基が育成ドラフトで中日に入団、昨年8月2日、初めてスターティングメンバーとして出場、初ヒットを放った。