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【西武】“トレンディ世代”工藤公康と“ズボン”を買いに行ったあの頃

文春野球コラム ペナントレース2017【共通テーマ:高校野球】

2017/08/10

1981年大会で無安打無得点を記録した工藤公康

 1998年夏の甲子園大会決勝で、京都成章相手に無安打無得点試合を演じた横浜・松坂大輔(ソフトバンク)のインパクトには及びませんが、私の記憶の中では81年大会の長崎西戦で同じ記録を達成した名古屋電気・工藤公康(ソフトバンク監督)が強く印象に残っています。落差の大きいカーブを武器に淡々とアウトを重ねていった童顔の投手を半年後から仕事で取材するとは、まったく想像していませんでした。当時はマクドナルドの店長としてひたすらハンバーガーを売っていましたので。

 豆情報ですが、工藤が快挙を記録したのが8月13日に行われた2回戦の第2試合。第1試合では前橋工・渡辺久信(西武SD)が、第3試合では福岡大大濠・森山良二(楽天投手コーチ)が登板し、のちに3人がチームメートとなっています。ドラフトでは西武が6位指名。工藤自身は社会人・熊谷組入社で進めていましたので入団交渉は難航しましたが、年末ギリギリに何とか入団にこぎつけました。

 この年のドラフト1位は熊本工から所沢(夜間)に転校していた伊東勤(ロッテ監督)。今では認められていない球団職員の練習生として、すでに西武のユニホームを着ていてのドラフト指名でした。なので、この二人はドラフト同期ながら年齢は伊東がひとつ上になります。伊東は熊本工の3年時、県大会決勝で秋山幸二(前ソフトバンク監督)の八代を下し甲子園に出場。2本塁打を放ってプロからも注目を浴びていました。

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1982年に入団した背番号「47」工藤公康 ©文藝春秋

 さて、82年に入団した背番号「47」は新任の広岡達朗監督の目に止まり、開幕から1軍ベンチ入りしていました。といっても出番は少なく、ブルペンに投球練習に向かうまではもっぱらベンチからの「ヤジ将軍」。相手側から生意気な若造がいるという声が伝わっても「だって、グラウンドでは対等でしょう。球場の外に出たら先輩・後輩ですけど」と意に介さなかった工藤。そのあたりの度胸が長年プロで投げ続けることができた理由ともいえます。

 広岡監督からは「坊や」、メディア関係者からは「カリメロ」と呼ばれ、歳の離れた先輩たちにも可愛がられながらも着実に力をつけて、その年の8月31日の日本ハム戦に2番手として登板し、待望のプロ初勝利を挙げました。個人的に、今では禁止されているサインをもらい、宝物として大事に保管しています。

工藤の初勝利記念サイン 「初」が示すヘンになっているもご愛嬌? ©中川充四郎

父親からのスパルタ教育

 高校を出て1年目は諸先輩に溶け込むのも難しかったようで、遠征先の宿舎で暇を持て余していました。福岡遠征のある日、「ズボンを買いたいんですけど付き合っていただけますか?」と声をかけられ、現在は閉店した玉屋デパートに。のちに「トレンディー世代」としておしゃれな服装が自慢になりましたが、当時はジャージ以外の私服はほとんど持っていません。無難な紺系のズボン(当時はパンツとは呼びませんでした)をアドバイスした記憶があります。

 当時からおしゃべり好きで、コーヒーを飲みながらよく雑談を交わしました。印象に残っているのがスパルタ教育。「ウチのオヤジが厳しくて、バンバン叩かれました。本棚にはスパルタ何とかっていう本がたくさん並んでましたから」と。しかし、本人はのちに父親になっても子供たちには優しく接していたようで、父親を反面教師にしていたのでしょうか。

 野球を始めたのは父親の勧め。制球が悪く、投球練習は5メートルぐらいの距離から始め、ストライクが安定してから徐々に距離を伸ばしていくのが基本練習だったようです。また、スピンを効かせる練習として畳に仰向けに寝て、親指と人さし指でボールを挟みパチン! と回転させて天井まで届かせるのも当たり前の練習とのことでした。

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