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江戸時代、“濃厚接触者”はどこに隔離されていた? 磯田道史が語る「感染症の日本史」

流行1回に付き、米二百石の“補償”も

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〈収束に向かっているように見えた新型コロナの流行が、ぶり返し、感染者が再び、増える傾向にあります。本連載では、初回から、歴史の教訓として「第二波・第三波の可能性」を警告しましたが、現実となり、残念です〉

 こう語るのは、歴史家の磯田道史氏だ。

〈5月初旬の段階で、私は危惧して、読売新聞に、こう書きました。

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「外出解除が早すぎると、痛い目に遭った歴史もあり、これまた厄介である。100年前の『スペイン風邪(インフルエンザ)』の時、米国のサンフランシスコ市やセントルイス市は外出解除を焦って、たちまち感染第二波が生じ、その分だけ、死者を増やし、長引いて、経済被害も増えた」「感染の波が一度弱まった時、政治家が危険を過小評価しがちな点には注意の必要がある」〉

江戸時代にも「自粛」はあった!

 こうした問題意識から、今回、磯田氏が改めて検証したのは、「江戸時代の為政者たちが、感染症にどう対応したのか」だ。

〈新型コロナの感染拡大を防ぐために、我々は、「自粛」生活を送ったわけですが、その点、江戸時代はどうだったのでしょうか。

磯田道史氏

 香西豊子『種痘という〈衛生〉』によれば、江戸時代にも感染防止の自粛「遠慮」がありましたが、その目的は現代とは異なり、「殿様(藩主)にうつさないため」でした。殿様が不在の場合は、「『遠慮』の制が適用されないこともあった」のです。

 幕府も、将軍の身体を守るため、“法定伝染病”の制度を設けています(川部裕幸『江戸幕府の法定伝染病』日本医史学雑誌)。1680年以降、疱瘡(天然痘)、麻疹、水痘に感染した場合、幕臣は、江戸城への登城を35日間、「遠慮(自粛)」することとされました。

 しかし、英国でチャールズ皇太子やジョンソン首相もコロナに感染したように、徳川将軍も、感染はなかなか免れなかったようです。

 江戸人の多くは幼児期に疱瘡にかかりました。徳川将軍も、周囲が「遠慮=自粛」を尽くしたはずなのに、歴代15人中14人が罹患しています。かからなかったのは、8歳で亡くなった7代家継だけです(『種痘という〈衛生〉』)〉