03年の日本シリーズで見た右方向への強い打球
あの放物線と、そのボールがスタンドに到達したときの球場の熱気を私は今も忘れない。阪神タイガースが18年ぶりの優勝に沸いた03年。私は関西のスポーツ紙で阪神タイガース担当の記者をしていた。壮絶な勢いで突き進んだペナントレース。正直、日本シリーズもこの勢いのまま、パ・リーグの覇者である福岡ダイエーホークスを打ち破ると安易に考えていた。しかし、そのシリーズは空前の激戦となった。
福岡でホークスが2連勝(初戦はサヨナラ勝ち)。決戦の地を甲子園に移してタイガースが3連勝(3戦、4戦と2試合連続サヨナラ勝ち)。そして福岡に再び場所を移し、ホークスが2連勝。私の中で雌雄が決したと思った瞬間は第7戦の三回。ホークス2点リードで迎えた一死二塁で井口資仁内野手が放った右中間への2ランだった。その瞬間、タイガースフィーバーをその中心で報道し続けた03年シーズンの終焉を全身で感じた。
「ああ、覚えているよ。ピッチャーは左腕のムーア。スライダーを右中間に運んだね」
井口選手自身もその打席の事をハッキリと覚えていた。考えることもなくサラッと打った球種を口にした。不思議なものでその日本シリーズの一年後に私はマリーンズに「広報担当をしてみないか?」と誘われ、大阪から千葉に居を移した。今思うとなかなかの決断だが、若かった自分には躊躇はなかった。そして09年、その忘れられない驚愕の打撃を披露した井口選手もまたマリーンズに入団し、17年の今年、その引退の瞬間まで立ち会えることになった。当時は面識もなにもない。マリーンズ入団以降は共に過ごす時間も多くなったが、なんとなく古い話を切り出すのは気が引けた。引退を決意した今。あの時、同じ空間で同じ時間を過ごした人間として当時の思い出話をどうしても聞きたくなった。
「タイガースは粘っこい野球を行う印象だった。赤星(憲広)、藤本(敦士)などしつこい打撃をして上位につなげる感じ。シーズンでは100打点カルテット(井口、松中、城島、バルデス)と呼ばれたホークスも突き放そうとしたけど、そうはいかなった。強い相手だった。なによりも甲子園のアウェー感は半端がなかった」
甲子園3連敗のショックを吹き飛ばした博多駅での出来事
先ほども既述したように福岡での初戦でサヨナラ勝ち、2戦目は圧勝と2連勝を飾ったホークスは甲子園で3連敗を喫する。しかも逆転負けの連続。それは甲子園が作り出した異様なムードによるものが大きかった。タイガース投手がストライクをとるだけで、球場全体が地鳴りのような歓声が沸き起こった。記者席にいても隣の記者と会話をすることも困難なほどの歓声だった。人生で味わったことがないような異様な轟音。当然、グラウンドの選手たちはそれ以上のものを感じていた。
「あんなのは初めてだった。今まで味わったことがないようなアウェー感だった。動揺をしてしまった部分はあったと思う。甲子園に負けた気がした」
日本一への王手をかけるはずが、逆に王手をかけられた。大阪の街はもうお祭り騒ぎ。誰もが85年以来の日本一を信じていた。しかし、ここから舞台を再び福岡に移すことで流れはまたガラリと変わった。
「忘れられないのは甲子園で3連敗をしてショックを感じながら博多駅に着いたら、凄い数のファンの方々が戻ってくるのを待って駅に駆け付けてくれていた事。『おかえり』、『ここからだぞ、頑張れよ』、『信じて応援しているよ』と声をかけてくれた。ボロボロになって帰ってきたような状態だったから、こみ上げるものがあった。ホームに戻れば勝てる。その瞬間、自信が芽生えた」
第6戦にホークスは勝利をすると第7戦も自慢の100打点カルテットがタイガース先発のトレイ・ムーア投手に襲い掛かり勝利した。余談だが当時は予告先発制度がなかったため、記者の仕事の一つに先発予想があった。私の予想は異例の中3日でエースの井川慶投手の投入と読み、スポーツ紙は残りすべてがムーア。当たっていれば大スクープだったが、見事に1社独占で外すという記者としては空前の大失態を犯す。ちなみに今更、井口選手に聞いてみるとホークスサイドは「ムーアの1本を想定していたと思う」との事。3勝3敗で迎えた勝負の7戦目に中3日の特攻覚悟でエースを送り込むという浪花節をイメージしていたのはどうも私だけだったようだ。ただ、不思議と当時、会社に怒られた記憶はない。