芥川龍之介が後に妻になる女性に宛てた恋文が冒頭近くで紹介される。
「この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします」。交わりたいという欲望を、食欲へとずらし、置き換える。そのことがなぜリアリティをもつのかという問いから本書は始まる。
記紀や遠野物語、折口・柳田の論考はもちろんのこと、アンパンマンに斎藤茂吉、マッドマックスからレヴィ=ストロースまで、性と食をめぐる場面が次々に提示される。そこには人間と動物が交わる異類婚姻譚があり、糞尿と屍体が喚起するケガレとエロスの世界があり、人間を料理して食べる猿神がいる。自在に引用される、異様かつ魅惑的な光景。著者の語りは、論理としては接続しつつ思考はあざやかに飛躍し、禁忌をものともしない。くらくらと眩暈のしそうな感覚に襲われながらも、ページをめくる手が止まらなかった。
そうした中で見えてきたのは、殺す/殺されるという関係性が、性・食と不可分であることの厭わしさと豊饒さであり、その恐怖と官能のせめぎあいの中に、権力関係もまた生まれてくるという事実である。
たとえば三章に出てくる宮沢賢治の童話「蜘蛛となめくぢと狸」。蛇に足を噛まれたとかげに、嘗めて治してやろうとなめくじが言う。傷を嘗められているうちにとかげの足は溶け、次に腹を嘗められて腹が溶ける。やがて半身が溶け、最後に心臓が溶けて絶命するのだが、その瞬間、とかげはなぜか安心するのである。
なめくじは傷を癒すという意味の「嘗める」を装いながら、味わい食べるという意味の「嘗める」へと、巧妙に意味をずらしていく。嘗めるという行為が、傷を癒す→性的な快楽へ導く→その果てに殺す→食べる、とつながっていくことを著者は指摘する。そしてそのなめくじも、雨蛙によって溶かされ、食べられるのだ。
本書の表紙カバーには、気鋭の画家・鴻池朋子の作品が使用されている。描かれているのは、さまざまな姿態を見せて夜の森を浮遊する狼たち。異様なのは、その下半身から人間の足がにょっきりと出ていることだ。少女と思われる、赤い運動靴と白いソックスをはいた足である。
少女が狼の毛皮をかぶっているのか。それとも狼が少女を食べているのか――。本書を読了してから改めてこの絵を見ると、もしかすると狼と少女が交わっているのではないかとの妄想にかられる。そしてさらに、食べ終わった少女を狼が「排泄」しているのかもしれないという地点まで妄想を進めてしまう私がいる。まったく、怖ろしい本である。
著者は「東北学」を提唱したことで知られる民俗学者だが、その考察は領域を超えた広がりと豊かさをもち、読者に驚きと悦び(そして恐怖)を与えながら、生死の深淵まで下りていく。圧倒的な読書体験である。