日本企業の競争力をヒト・モノ・カネの三要素から考える。前回のヒトに続き、今回はモノである。
我々日本人は「モノづくり日本」と誇らしげに自明のこととして語ってきたが、私はずっとこの言葉に違和感を拭えないでいる。
「日本は本当にモノづくりにおいて競争力があるのか?」「この言葉に甘えて真の競争力を磨いてこなかったのではないか?」という疑問を持ち続けているのだ。
戦後、日本は輸出製造業を核として高度経済成長を成し遂げた。自動車・電気製品などB2C(消費者向けビジネス)で世界を席巻、続いて半導体や電子材料、電子部品などB2B(企業間ビジネス)でも高い競争力を発揮し、1980年代には『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われるほどになった。中でも製品力とブランド力が一体となり世界的尊敬を集める企業となったSONYは「モノづくり日本」の代表だった。
私が外資系金融機関で役員となって初めてニューヨークでのグローバルミーティングに参加した2000年のこと。資産運用会社として自分たちのブランディングをどう行うかが話し合われた時、目指すべき理想として取り上げられたのがSONYだった。あの時ほど日本人としての誇りを感じたことはない。
そもそも日本人は本当にモノづくりの才能があるのか?
翻って現在、日本企業にそのような存在があるだろうか? B2Cで世界的競争力を辛うじて保つのは自動車・ゲームだけで、「モノ作り日本」はガラパゴス化の中で取り残されてしまっている。そもそも日本人は本当にモノづくりの才能があるのだろうか。
1543年、ポルトガル人によって種子島にもたらされた鉄砲を例にとれば、伝来から僅か10年で日本各地に鉄砲鍛冶が興り、日本は世界ナンバーワンの鉄砲生産国になった。その頃から日本人の量産化能力が高かったことを歴史は示している。これはすなわち製造業における普遍的競争力を日本人が有しているように見える。
結論から言うと日本人はたしかに目に見えるモノの連続的な需要変化には強い。今でも自動車やゲームなどの分野で世界的競争力を有しているのはそのためだ。しかし、不連続な製品をゼロから創りだすこと、目の前に存在しないものを創りだすことは苦手なのだ。
16世紀の日本人はそれまで見たこともない鉄砲を僅かな年月で世界最大量生産したが、鉄砲そのものを創造したわけではない。「目の前に現れた鉄砲」は作れるが、「無から鉄砲を創造すること」は出来なかったのだ。