1945年(昭和20)、夏、日本敗戦。ところがその4年後、喜多川家では、驚いたことに子どもたち3人だけでアメリカに戻ることを決定する。先述の「Free」誌上で、メリーはアメリカ行きの事情をこう説明した。
「父が日本はメチャクチャだから学校はアメリカの学校に行ったほうがいいだろうっていうんで、アメリカに帰ったの」
「帰る」とはいえ、年長のメリーさえ、わずか5歳で離れた国である。アメリカ生まれのため米国籍を有していたとはいえ、戦時下の日本では英語を学ぶ機会などなかったことを考えれば、太平洋の向こうの国は、言葉を含めたすべてがまったくの異国だった。そんなアメリカに、16年ぶりに子どもたちだけで渡る――喜多川家の思い切りの良さには驚嘆すべきものがある。
お寺の日本語学校で教えていたメリー氏
3人を乗せた船は、横浜港を出航してから12日後の1949年(昭和24)11月24日、サンフランシスコに到着。日本はいまだアメリカ占領下だったため、船はW.H.ゴードン将軍号という軍用船で、姉弟の船室はもっとも安価な三等だった。
アメリカで、姉弟が身を寄せたのがシカコさんの実家である。百歳のシカコさんが再び回想する。
「3人は、しばらくの間、リトル東京のすぐそばにあった私の両親の家に住んでいました。でも、それほど広い家でもなかったし、そのうちに泰子は私の姉、オク二の家に、ヒー坊は散髪屋さんのお家(うち)に移っていきました。マー坊は……ごめんなさいね、遠い昔のことで思い出せないわ」
7歳だったタエミさんは、この時、初めてメリーに逢った。
「明るくて、一緒にいてとても楽しくて。私は、すぐに泰子ねえちゃんを好きになりました。ひとまわりくらい歳上だったこともあり、私や妹をとても可愛がってくれた。泰子ねえちゃんは、土曜日には、お寺の支部の日本語学校で教えていましたね。それに、英語の語学学校にも通っていたと思います。少し落ち着いてからはハウスガールにもなりました」
ハウスガールとは、ある家庭に住み込み家政婦の仕事をする若い女性のこと。日中の通学を許可される場合もあり、ハウスボーイも同様で、こちらは庭仕事など肉体労働もこなした。
メリー自身は当時を、「決して楽な生活ではありませんでした。ベビーシッター(子守り)もやったし、ショップガール(売り子)もやりました。学校が終わると、アルバイト先へ直行したり……」と、述懐している(「女性自身」1976年5月6日号)。
(文中敬称略)
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