父親中心の川嶋家
それから少しして、実際に私は内藤記者と目白の喫茶店で紀子さまにお会いした。内藤記者はすでに前年から何度か話を聞いており、会話はとても自然だったが、私はその時、川嶋さんがなぜ記者に娘を紹介したか、わかったような気がした。20代そこそこの紀子さまの対応は、父親にとてもよく似ていたからだ。ニコニコしながら何分でも会話はする。だが、肝心なことは話さない。
「それはね、ひ・み・つ、です」
「さあ。斎藤さんはどうだと思いますか」
じつに、手強いお方だった。
川嶋家は、父親中心の家庭だった。川嶋さんを軸に、家族4人ががっちりとまとまっていた。紀子さまが高校のころから自宅にテレビを置かなくなったのも、川嶋さんの判断だったと聴いた。おかげで紀子さまは、高校時代、それまでにもまして猛烈に本を読んだという。
「決して押さえつけないし押しつけないのにいつの間にか夫の思っている通りに事が進んでいるんですよ」
妻の和代さんから、そんな話を聴いたことがある。
本を読み、絵を描き、ピアノを弾く。小さいころから乗馬やテニス、スキーを楽しみ、手話や奉仕活動に汗を流す。紀子さまはまさに、川嶋さんにとって理想の娘だったろう。
「かわいい子には旅をさせろ」
「人種的な偏見を持たない子に育てたい」
川嶋さんのモットーにそって、大学時代には、青年の船で東南アジアも訪れている。
内藤記者はその後、九州に異動し、私は1人で川嶋家の取材をつづけることになった。礼宮さまは88年から英国に留学され、紀子さまは礼宮さまと離ればなれになったことで、ご自身の気持ちをはっきりと自覚されたように思う。
(後編に続く)
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