失冠した大山は「しあわせという言葉を忘れていた」
豊島に限らず、これまでの将棋界で頂点の地位にあった棋士が無冠に落ちる構図は繰り返されてきた歴史である。だが、その屈辱を跳ね返して復活した棋士がいるのも、やはり繰り返されたドラマだ。その事例を紹介したい。
昭和の棋界を彩る最大のライバル関係と言えば、大山康晴十五世名人対升田幸三実力制第四代名人だろう。「高野山の決戦」と呼ばれる勝負を制してからは、大山が常に前を行くかたちで、升田に先んじて名人を奪取。その後は名人戦の舞台でも升田を叩きのめして、大山は十五世名人の資格を得た。だが奮起をした升田が「名人に香を落として勝つ」という子どもの頃からの悲願を達成し、大山から当時のタイトルである名人・九段・王将をすべて奪って史上初の三冠王となった。そのときに升田が残した言葉が「たどり来て、いまだ山麓」である。
では、一敗地に塗れた大山の心境はどのようなものだったのだろうか。
「眠れぬ夜をすごすほどくやしかった。そして、そのくやしさは落ち込みに変わった。『大山時代去る』という活字を見た時は二度と立ち直れないのではないか、という気持ちになった」と自著で振り返っている。
傷心の大山を癒したのは、故郷の倉敷で聞いた父親の言葉だった。
「康よ、地位、名誉、それにオカネなんかにあまりこだわらないほうがいい。自分の好きなように将棋を指して、勝負は気にしない方がしあわせだよ」
この言葉を聞いた大山は「そうだ、しあわせという言葉を忘れていた。なんのためにプロ棋士になったのか。それは、つまりはしあわせな人生をすごしたいからだった。その原点を忘れ、所信を失っていては、自分の将来はそこそこに終わるしかない」。そこに気づいてからはどんな対局にもすっきりした気分で対局できるようになった。大山がすべてのタイトルを升田から奪い返したのは、無冠転落からわずか2年後のことである。
まさか無冠までなるとは……
大山の後を継いで将棋界の天下人となったのは中原誠十六世名人である。だが中原も1982年に行われた名人戦で加藤一二三九段に屈して名人を失冠、直後に行われた王位戦でも内藤國雄九段に敗れたので、自身としては12年ぶりの無冠となった。
「まあ名人というのはいつかは取られると、あるていどは覚悟していたんですが、まさか無冠までなるとは思っていませんでした。このときタイトル保持者の数が多く、いままで1位だったのがわずか2ヵ月足らずで6位になってしまい、なんだか急に立場が変わったようで最初はやはりかなりの戸惑いと焦りがありました」
とは、当時を振り返った中原の言葉である。