今年は『応仁の乱』(呉座勇一著)がベストセラーになったのに続き、同じく中公新書から出た『観応の擾乱(かんのうのじょうらん)――室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(亀田俊和著)も7月の発売以来、版を重ねている。いずれも室町時代に起こった戦乱ではあるが、応仁の乱とくらべれば知名度の低い観応の擾乱がここまで関心を集めるとは驚かされる。

 観応の擾乱が起こったのは応仁の乱の100年以上前、朝廷が、吉野の南朝と、足利氏の擁立した京都の北朝に分かれて対立していた南北朝の時代である。その内実は先述の本のサブタイトルにあるとおり、室町幕府の初代将軍の足利尊氏と、その弟で、尊氏とともに幕府を開いた足利直義(ただよし)による争いだ。とはいえ、擾乱の語義どおり、観応の擾乱では各勢力が入り乱れて、一応の区切りがついたあともしばらく激戦が繰り広げられた。この擾乱の発端は、いくつかのできごとによるが、直接的には、観応元年10月26日、足利直義が京を脱出したことに始まったとされる。西暦でいえば1350年12月4日、いまから667年前のきょうのできごとだ。

有名な「応仁の乱」より100年以上前に起こった激戦が注目を浴びている ©時事通信社

 足利直義はその前年、自身が執事(将軍を補佐する要職)から解任させた高師直(こうのもろなお)の決起により失脚、出家していた。だが、この年、西国に派遣されていた直義の養子の足利直冬(ただふゆ。尊氏の実子)が九州で勢いを増し、これを討つため尊氏と高師直・師泰(もろやす)の兄弟が出兵する。直義はその隙を突き、尊氏軍の出陣の2日前の10月26日(和暦、以下同)、京を出奔、師直兄弟の追討を目的に、各地で兵を募りながら、11月21日、河内国(大阪府)の石川城に入った。23日には、吉野の南朝に降伏を申し入れ、翌月に正式に許される。こうして直義は南朝をも味方につけて勢力を広げ、東国でも直義派の蜂起をうながした。明くる観応2年1月7日(1351年2月11日)には石清水八幡宮(京都府八幡市)に入り、このとき政務をとっていた足利義詮(よしあきら。尊氏の嫡男)のいる京都に迫った。

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 当初、直義には何もできまいとたかをくくっていた尊氏・師直軍だが、思いがけない情勢の変化に、西国から近畿に引き返す。1月15日には、京都から脱出した義詮と合流、直義方の桃井直常軍と京・三条河原付近で戦って勝利を収めた。だが、その後もなお直義軍の兵力は増え続け、尊氏は翌16日に丹波国に撤退する。そして2月17日、摂津国(兵庫県)打出浜にて、尊氏軍と直義軍はついに真正面から衝突し、尊氏軍が敗北を喫した(打出浜の戦い)。このあと20日に、尊氏と直義は、師直・師泰を出家させることを条件に和睦する。しかし師直兄弟は、尊氏一行が京に向けて出発した26日、上杉修理亮(しゅりのすけ)の軍勢に襲われ、斬殺されてしまう。

 こうして戦いは直義の大勝に終わり、彼は甥の義詮の補佐役として幕府に復帰する。だが、これは観応の擾乱の第一幕の終わりにすぎなかった。直義は翌観応3(1352)年、尊氏との再度の決戦に敗れたのち、通説では毒殺されたと伝えられる。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

呉座 勇一(著)

中央公論新社
2016年10月19日 発売

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