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事件の第一報を聞いた天皇は激怒した

 天皇が事件の第一報を聞いたのは、午前5時半頃。襲撃された鈴木侍従長の妻“たか”が、医者の手配を頼むために宮中に電話をしたことが、侍従から天皇へ伝った。たかは、天皇が幼少の頃に皇孫御用掛として仕えていた。

 かたや鈴木侍従長は、昭和の初めから天皇の側にいた父親代わりのような存在だった。そんな侍従長が弾丸4発を撃ち込まれ瀕死の重傷──それをかつての“乳母”から聞かされた天皇は、激怒したに違いない。慌てて宮中に参内した本庄繁侍従武官長に対し、軍服を着服して現われた天皇は、「事件をすみやかに鎮定せよ」と厳命したのである。

 
 

 海軍の動きは素早かった。東京湾に戦艦「長門」など艦艇を送り、陸戦隊も配備した。

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 一方、陸軍の対応は鈍かった。事態を穏便に収束させようと、川島義之陸軍大臣名で「決起の趣旨については天聴に達せられあり」という布告を出し、反乱部隊をなだめようとした。

 青年将校に同情的な本庄侍従武官長、川島陸相らは天皇に対し、「陛下の軍隊を勝手に動かした彼らの行動はもとより許されるものではないが、その精神は純粋に君国を思うがためであり、必ずしも咎むべきにあらず」と執拗に抗弁した。しかし、天皇はあくまで彼らを反乱軍と見なし、暴徒鎮定を繰り返し命じた。

「どんな理由があろうと、股肱の老臣たちを殺戮するのは、私の首を真綿で締めるのに等しい」

「陸軍があくまで彼らの行動にも理があると庇うならば、私みずから近衛師団を率いて、暴徒鎮圧の指揮をとる」

 

 28日、ようやく「決起部隊の占拠を認めない。直ちに原隊へ帰れ」という大元帥命令が下る。さらに陸軍中央は命令を徹底しようと、空からビラを撒き、ラジオで投降を呼びかけた。事件勃発から4日目、ようやく反乱は鎮められ、指揮した青年将校ら17名はのちに処刑されることになる。

 

 帝都を占拠した前代未聞のクーデターは不発に終わったが、これ以後、社会の騒然とした空気は高まる一方となった。軍に不都合な者は抹殺される──テロの恐怖が政治に風穴を開け、軍部独裁への道を開いたのだった。

 この後も大陸進出、米国との開戦など、天皇と軍部との緊張関係は続き、終戦時の「宮城事件」へと連なることになる……続きは「日本のいちばん長い日」でお楽しみください。

日本のいちばん長い日 決定版 (文春文庫)

半藤 一利

文藝春秋

2006年7月7日 発売