日本企業としていち早くCSV経営を掲げたキリンホールディングス。持続可能な企業グループをめざす、その戦略とは……。陣頭指揮をとる磯崎功典社長に、『文藝春秋』編集長・新谷学が迫る。
磯崎功典氏
キリンホールディングス株式会社
代表取締役社長
新谷 学
聞き手●『文藝春秋』編集長
東日本大震災が契機となったCSV経営
新谷 磯崎社長が力を入れている「CSV(Creating Shared Value=社会と共有できる価値の創造)経営」は、企業の強みを活かして社会が抱える課題を解決しつつ、経済的価値も生み出そうというビジョンです。どういうきっかけで導入されたんですか。
磯崎 東日本大震災です。キリンビールの仙台工場も、津波で甚大な被害を受けました。しかもビールの消費量は、1994(平成6)年をピークに落ち続けています。現場を見て、再興すべきなのかという考えが頭をよぎりました。
新谷 経済合理性から判断すれば、閉鎖が妥当かもしれません。
磯崎 しかし我々が工場を閉じれば、近隣の製罐工場、段ボール工場、物流の会社なども撤退して、何百人もの人たちが職を失ってしまいます。キリン仙台工場が地域を支え、ひとつのバリューチェーンで繋がっている以上、自分たちの都合だけで閉じてしまうわけにいきませんでした。
新谷 社会的な責任を重視されたわけですね。
磯崎 はい。震災から4か月後には、復興支援の「キリン絆プロジェクト」も始めました。すると「株主にとって何のプラスがあるのか」という声が出たんです。確かに世の中の役に立っていても、株主のためにはなっていない。そこで、CSV経営を提唱されていた経済学者のマイケル・ポーター教授に会いに、ハーバードまで行きました。
新谷 そのフットワークの軽さが素晴らしい。私は、仕事をする上で愛嬌と図々しさが大事だと思っているので、まさにお手本です。
磯崎 ポーター先生から「社会の課題を解決すると同時に企業も成長しなければ、株主は納得しない」と教えられて、ホールディングスの取締役会で「CSVを経営の柱に入れたい」と提案したら大反対に遭いました。「日本の会社は、まだどこも採用していない」という理由です。日本人らしいでしょ(笑)。
新谷 よく耳にする話です。
磯崎 ある社外取締役から、「他社がやっていないことに一番に取り組むほど素晴らしいことはない」という発言があって、ようやく空気が変わりました。
新谷 我々の世界でも、いい本、いい記事、いい雑誌を作ることが優先されて、収益を上げるという意識が薄かった気がします。もはやそれだけでは立ちゆかないので、私は現場に「いい記事を作ることは大切だけど、稼ぐという意識をもつことも大事だ」と言っています。
磯崎 最近の若い社員は「キリンは社会との関わりを大事にしているから」という理由で入社してきます。彼らに働き甲斐の羅針盤を示す意味でも、CSVを採り入れてよかったと思っています。
新谷 若い人のほうが、社会的な意識は高いですよね。
磯崎 僕などは毎日キリンビールを飲めると思って入社したんですが(笑)、そういう単純な学生は少なくなりました。
新谷 磯崎社長が入社された1977(昭和52)年頃、ビールはキリンの一人勝ちで、シェアは60%を超えていました。
磯崎 隔世の感があります。独占禁止法違反で企業分割の対象になることを心配して、ウイスキーや食品などへ多角化を始めた時代です。僕は、そちらをやってみたかったんですよ。まだ踏み込んでいない分野に挑戦するほうが、やり甲斐があるだろうと。
新谷 最初は神戸支店で、小岩井チーズの営業を担当されました。その後の経歴を拝見してもビール以外が長くて、35歳のときにはホテル経営を学ぶためにアメリカへ留学されています。
磯崎 卒業後は、ミズーリ州のリゾートホテルに勤めて実地訓練をしました。
新谷 その後、兵庫県尼崎で子会社が経営するホテル「ホップイン アミング」で、開業準備から初代の総支配人まで務められました。そこで得た経験は、大きな血肉になったそうですね。
磯崎 あれがなかったら、いまの立場になっていないかもしれません。実は、さまざまなホテル会社に運営をお願いしに行ったんですが、すべて「お断わりします」でした。大阪が近いし工場地帯ですから、誰が泊まりに来るのか。「キリンさんもやめたほうがいい」と忠告されましたよ。
新谷 ほぼ一年中泊まり込まれて、しかもパジャマを着て寝る夜がなかったというお話を聞いて、驚きました。
磯崎 客室の稼働率が低い以上、人件費を抑えなければいけません。性善説に立つなら、自分が一番きつい仕事をやれば、従業員はついて来てくれるんじゃないかと。夜間の見回りからロビーの掃除までやりました。よう働いたな(笑)。
新谷 山本五十六流の「やってみせ」ですね。
磯崎 やがて、コックさんが駅前でメニューを配ったりしてくれるようになりました。すぐに稼働率が上がったわけではありませんが、組織として一枚岩になりました。
新谷 そのあと、宝塚歌劇のお客さんに目を付けられたことから活路が開けたと。
磯崎 ファンが読む雑誌に広告を載せてもらったのが奏功して、50%ほどの稼働率が90%まで上がりました。
コア事業に集中して企業価値を高める
新谷 ところが、成功を収めたそのホテルを売却されたのも、磯崎さんです。
磯崎 2007年に経営企画部長となって子会社を十数社売却したんですが、最初に手を付けたのがホテルでした。設備更新が必要になったとき優先されるのは、間違いなくコア事業のビールです。従業員が、お客様から「このホテルは汚い」などと言われて惨めな思いをするなら、稼働率が高くて綺麗なうちに譲りたかったんです。実は開業する前からいずれは売ることを決めていたんですが、社員にそうとは言えませんからね。
新谷 どんな企業も本業が思うようにいかないのが、いまの時代です。新しいビジネスを展開する際に、手を出していいものと悪いもの、あるいは既存事業のうち、整理しなければいけないものと伸ばさなければいけないものの見極めは、何より大切です。
磯崎 社員が希望と誇りをもって働くためには、コア事業に集中して企業価値を高めるべきです。
新谷 2015年に、ホールディングスの社長に就任されました。
磯崎 業績は赤字で、株価も最悪。あらゆるステークホルダーの信頼を失っていました。就任してから3年間は新しいことを手がけず、不採算事業からの脱却と既存事業の強化に努めました。
ブラジルのビールとオーストラリアの乳飲料を売却したほか、国内飲料のキリンビバレッジをコカ・コーラに売却することも検討しました。営業利益率がわずか1.5%で、冷夏にでもなれば大赤字を出すレベルだったからです。実際にアトランタの本社まで行って、CEOと会いました。
新谷 本気度を示したわけですか。
磯崎 ダメだと判明してから売りの交渉に入っても遅いので、並行して話を進めたんです。そのことがビジネス誌に書かれてしまって、社員は本気になりました。収益を上げる体質に改善されて、利益率は10%近くまで向上しました。
新谷 筋肉質になった後は、次にどういう方向へ踏み出すかが大事ですね。
磯崎 経営者の役割は、会社を潰さないことと持続的に成長させることに尽きます。ビールの売り上げを伸ばし続けられれば、それに越したことはありませんが、アルコール部門の成長には限界を感じます。アルコールに対する社会の見方も、次第に厳しくなっています。
新谷 お酒が悪いのではなくて、飲み方ですけどね。
磯崎 そうです。私も毎晩飲んでますから(笑)。しかし適正飲酒と人口減少は世の中の流れですから、消費量は減ります。かといって、いまさら電気自動車は作れませんよね。やはり自分たちの強みである発酵・バイオテクノロジーで、新しいポートフォリオを築こうと考えました。
プラズマ乳酸菌で多くの人に「免疫ケア」を広めたい
新谷 既存の酒類・飲料と医薬事業の中間に位置するヘルスサイエンスに注目されて、第三の柱に育っています。
磯崎 長寿社会では健康が課題ですから、病気になる前の予防や未病の領域が重要になります。
新谷 特に話題なのが、免疫機能維持の効果が認められた「プラズマ乳酸菌」ですね。
磯崎 我々は40年前に医薬事業を始め、35年以上前から免疫の研究をしてきました。その中で2010年に発見したのが、プラズマ乳酸菌です。従来の乳酸菌は、一部の免疫細胞にだけ働きかけます。しかしこれは、pDC(プラズマサイトイド樹状細胞)という免疫の司令塔に直接働きかけることができる唯一の乳酸菌です。
新谷 「iMUSE(イミューズ)」というブランドのサプリメントのほか、「生茶」などの飲料やヨーグルトの機能性表示食品として発売されています。
新谷 磯崎社長の肌つやが私よりずっと若々しいのも、プラズマ乳酸菌の効果ですか。
磯崎 これは私個人の感想ですけど、毎朝4粒飲んでいたら、若い頃より調子がいい気がします。キリンだけでは、プラズマ乳酸菌の普及に限界があります。他社の飲料や食品にも広く使ってもらって、多くの人に健康になって欲しいと願っています。
新谷 せっかくの発見なのに、独り占めされないんですね。
磯崎 力を入れているクラフトビールについても同じ考えです。全国の飲食店に展開しているビールディスペンサー「タップ・マルシェ」は4種類のビールを提供できますが、他社のクラフトビールも入れられます。広く根付かせようと思うなら、プラットフォーマーを目指すことが大切です。
新谷 コロナ禍が続く中で、ヘルスサイエンス領域はますます拡大するでしょうね。
磯崎 健康に対する人々の意識が、いまほど高まったことはありません。人々の健康と社会のために役立っていると社員が誇りに思えれば、会社も強くなると信じています。
Text: Kenichiro Ishii
Photograph: Hideki Sugiyama
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