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――その取材された成果を、事件発生50年後にあたる昭和40年、旭川営林局誌『寒帯林』において「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表されました。これが『慟哭の谷』の原型であり、作家の吉村昭さんがこの事件を題材にした名作『羆嵐』を書かれるきっかけとなったそうですね。

木村 昭和49年ごろ、当時私は旭川営林局に勤めていたのですが、営林局に吉村昭先生から電話があって、「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」を小説化したいので、直接お会いして了承を頂ければ、という内容でした。率直なところ、素人作家の自分が書いたものが、有名作家である吉村さんの目に止まったというのは、大変うれしかったです。なんでも、吉村先生が講演のため留萌を訪れた際、地元の記者に聞かされて、初めて苫前三毛別事件のことを知ったとのことでした。

 それから吉村先生が編集者の方と旭川にお見えになって、私のもっていた資料やデータなどを示しながら、打ち合わせをしました。吉村先生は、熊に関する小説を当時既に九篇ほど発表されていましたが、「熊に関する実際のデータがなくて困っていた」とお話しになっておられて、特に数字やデータに興味を示されていましたね。

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 東京に戻られてからも、何かわからないことがあると、しょっちゅう電話がかかってきました。非常に熱心でしたね。ところがあるとき、電話で吉村先生が「申し訳ない」と謝られるんですね。何事かと思ったら、「1年で小説に仕上げる約束でしたが、まだ出来に納得いってないところがある。あと1年、猶予をいただけないでしょうか」と。こちらとしては、否も応もないのですが(笑)、いかにも吉村先生らしいお気遣いでした。

――三毛別事件が、数あるヒグマの食害事件のなかでも、とりわけ異彩を放っているのは、何と言っても、当該のヒグマの残忍性・執拗さが際立っているからだと思います。木村さんは本書のなかで「魔獣」という言葉で表現されていますが、この「魔獣」はなぜ生まれたのでしょうか。

木村 事件の起きた時期は真冬で、本来であればヒグマは冬眠しているはずです。ですが、このヒグマの場合、どうやら苫前に現れる以前に、別の地域で猟師に追われ、冬眠に入る機を逸して、いわゆる「穴持たず」となってしまった。それで究極の空腹状態となり、旭川や天塩地域でも女性を襲ったとの証言がありました。事実、退治された後に解剖したところ、証言に一致する被害者の脚絆などが出てきました。手負い・穴持たず・空腹という要素が重なって、異常な執念と凶暴性を持つに至ったのではないか、と思います。

――本書の功績として、木村さんの調査で改めて明らかになったヒグマの習性もありますね。

木村 例えば、一般に動物は火を怖がる、とされていますが、ヒグマの場合はその限りではありません。実際にこの事件では、明々とかがり火を焚いていたにも関わらず、ヒグマは何度となく集落を襲っています。それから、ヒグマにとって「獲物」は所有物ですから、遺留物があるうちは、そこから立ち去りません。この事件でも、「遺体」を自分の所有物とみなして、通夜の席にまで乱入しています。それから、通夜の席に乱入したことでも分かりますが、人間側の人数の多寡は関係ない、つまり10人いようと20人いようと襲うときは襲う、ということです。