King Gnuの“独自性”とは?
90年代、非常に強い主旋律を持った楽曲が量産され“Jポップ”と名づけられたが、例えば「白日」を聴くとなぜかあの楽曲群に近い印象を受ける。どこを切り取ってもサビに聴こえるというあの感覚――、この強い主旋律をポップスでもロックでもなくミクスチャー・ロックに乗せたところに彼らの独自性があった。同時にこのミクスチャー、《混ぜ合わせ》の素材が非常に多岐に渡り、その領域はハードロックやヒップホップやクラシックやジャズにまで及び、本来ならば分かり難い雑多な音楽になりそうなものだが、強い主旋律とあの稀有なヴォーカルによって広い間口を設け結果として大衆の支持を得た。つまり“Jポップ”をも混ぜ合わせに用いたと言える。King Gnuに限らず、ポップスやロックの範疇の外で強い主旋律を持つアーティストは近年の邦楽に度々登場しており、その源泉を辿れば07年のDTMソフトウェアによるあの技術革命にあるのでは、と私は踏んでいる。この推測が確かなものか否かは、引き続き文學界の本編で探っていきたい。
さて、冒頭でも記したが、本稿の目的は自著の新刊の宣伝である。そして本稿を読み返し、私はあることに気づく。一文たりとも新刊の宣伝をしてねぇじゃねぇか。これはいけない。新刊の売上が芳しくない場合、我が心の友、アイ●ルとのお約束も果たせなくなってしまう。しかし残り少ない文字数で新刊をアピールすることは不可能ゆえ、私が編集部に提案して敢えなく没になった新刊の帯文を列挙して、筆を置くことにする。
――鬼才、ついにそのベール(パンツ)を脱ぐ。
――マノウォーは演るのではなく殺るのです。
――アンプはマーシャル、時計はロレックス、車はメルセデスなのデス。
※編集部注:8月9日(火)発売の『音楽が鳴りやんだら』(文藝春秋)のこと。