芸能界デビューのきっかけは、『美少女図鑑』に掲載された写真が、東京の芸能事務所の目に留まったことだ。事務所に所属すると、中学時代は先述のとおり沖縄から通っていたが、高校入学とともに上京する。東京ではさまざまなクリエイターや学生と出会い、その人たちに勧められた映画を観ることも多かった。早稲田の学生からロシアの映画監督ヴィターリー・カネフスキーの存在を教えられると、すぐさま名画座へ行ってその作品『動くな、死ね、甦れ!』を観た。その直後、入江悠監督の映画のオーディションで「今年観た映画で印象に残っているのは?」と訊かれて同作を挙げたところ、すぐ出演が決まったという(『SWITCH』2016年6月号)。
イメージづくりのために禁じられたもの
ただ、仕事を続けるうち、撮影で時間が取られたり、友達と会えなくなったりと、犠牲にしなくてはいけないことも増えていく。事務所からもイメージづくりのため、好きなロリータ・ファッションではなく麻の服を着るよう言われたりした。それに反発しては、「まだ子供なんだから」とか、かと思えば「もっと大人としての自覚を持ちなさい」などと叱られ、ついには自分が何をやりたかったのかわからなくなってしまう。
一時は仕事をやめようとまで考えた彼女を押しとどめたのは、映画監督の熊切和嘉との出会いだった。あるオーディションで初めて会うと、さほど話したわけではないのに、「私はこの監督と一緒に映画をつくらなきゃいけない」と運命的なものを感じた。さらに受験者が一通り演技をしたあとで、自分だけ「もう一回やって」と言われ、《私がやりたかったのはこういうことなんだよなあ》、《私はもの作りに関わりたいのであって、タレントになりたいわけじゃないんだ。有名になることによる付加価値のようなものはいらないんだ》と気づいたという(『週刊文春』2014年6月19日号)。
もっとも、このときのオーディションは落ちてしまった。それでも二階堂は「この監督と映画をつくるまでは、絶対にお仕事をやめちゃいけない」と決意する。じつは熊切のほうでも、このときの作品で求めていたイメージとは違ったものの、いつか彼女で映画を撮りたいと思ったらしい。二人の思いは2014年公開の『私の男』で結実する。同作はモスクワ国際映画祭の最優秀作品賞をはじめ国内外で映画賞を受賞し、彼女の演技も高く評価された。
「確実に自分の中で何かが変わった」出来事
海外の映画祭ではこれ以前にも、16歳のときに参加した映画『ヒミズ』(2012年)で、ベネチア国際映画祭の最優秀新人俳優賞を受賞している。その撮影中、東日本大震災が発生したため、当初の台本は大幅に書き換えられ、震災後の世界を舞台にした力強い内容となった。
『ヒミズ』の公開にあたり二階堂は、《作品の中で震災と向き合ったことで、確実に自分の中で何かが変わった実感があります》と語った。だが、それと同時に、《「自分ができることはないのかな」といったもどかしさは特にありません。混沌とした社会に対して、はっきりとした答えを出せないのがいまの私の年齢であり、だから「わかんないです」と正直に言えるし、言ってもいいと思っています》と率直に口にもしていた(『週刊朝日』2012年2月24日号)。
それでも、そのあとで《私たちの世代は、これからいろんな現実を見て、そのたびにどんどん考えも変わっていくと思うんですけど、そのときそのときの自分の考えはちゃんと持っていたい》として、20歳になる《3年後にはちゃんとものを考えられる大人になっていたいと思います》と付け加えてもいる(同上)。この言葉どおり、二階堂はその後、社会のさまざまな問題について少しずつ考えを深め、仕事にも反映させていった。