1月22日、片平晋作死去の訃報が伝えられた。享年68。1月4日に亡くなった星野仙一と同じく膵臓がんで闘病中だったという。
1972年に南海に入団した片平は、18年間で通算1181安打、176本塁打。王貞治に憧れて一本足打法をマスターし、79年には30歳にして初の規定打席到達で打率.329をマーク。82年に西武に移籍すると、田淵幸一に代わり一塁の定位置を獲得。同年の日本シリーズ第6戦では7回に勝ち越し弾を放ち西武初の日本一の立役者となっている。その一本足打法は184センチの長身と相まって格好良く、左打ちの筆者は公園のゴムボール野球で掛布雅之のフォームと同じくらいよく真似していた。74年生まれで王貞治の現役時代を知らない自分にとって、一本足といえば片平晋作なのだ。
トレードでやってきた「日本一チーム」の主力
85年は開幕から好調を維持し、夏場以降息切れしたものの打率.306を記録する。その年のドラフトでは清原和博が同じ一塁手で入団。翌年打撃三部門で高卒新人最高の成績を収めたのは周知の通りだが、4月はプロの壁にぶつかりスタメン落ちすることもしばしばだった。その時一塁を守り、清原以上に打っていたのが片平である。5月に入り実力の片鱗を見せ始めた清原が常時出場するようになっても、片平は指名打者に回って5番を打ち続けた。86年は最終的に打率.292、17本塁打。この年の西武打線は清原をはじめ41本塁打の秋山幸二、MVPを獲得した石毛宏典のイメージが強いけど、5番DH片平の存在も地味に大きかった印象がある。
その片平が86年の暮れに横浜大洋ホエールズにトレードされると知り、大洋ファンの筆者は驚いた。しかも左殺しこと永射保投手も一緒である。こっちの交換相手はドラ1で入団しながら期待に応えられなかった左腕の広瀬新太郎プラス金銭。「西武はなんて太っ腹なんだ!」と子供ながらに思ったが、要は当時の西武が片平や永射を放出しても優勝を狙える層の厚いチームだったということ。もちろん、新任の古葉竹識監督が南海コーチ時代の教え子でもある片平を欲しがった部分もあるだろう。
その頃の球界の話題の中心は中日入りした三冠王・落合博満。でも大洋ファンからすると「広島を何度も優勝に導いた」古葉が監督に就任し、「日本一の西武ライオンズ」の主力が入団してくれるのは落合獲得と同レベルの出来事だった。さらには韓国・三星ライオンズに在籍中の3年間で54勝を挙げた元巨人の左腕エース、新浦壽夫の入団まで決定する。これでチームは変わる。優勝間違いなし。古葉大洋よ覇者となれ。多くのファンが期待に胸膨らませたのは言うまでもない。