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「学生さんには儲けなんて度外視でやっているの」

 そんな独自路線を歩む店の中で、さらに強い個性を放っているのが、伊藤が多い時は週3、4回食したこともあるという「トマト担々麺」(1000円)だ。「なんとなく担々麺にトマトを合わせたら美味しいんじゃないかなと思ったんですよ。試しに学生に食べさせたら“おばちゃん、これイケるよ”と言われてね」と2010年代半ばに誕生。最後にチーズとオリーブオイルをかけて完成し見た目も色鮮やかだ。

トマト担々麺 ©高木遊

 もともとの担々麺でもそうなのだが、3種の唐辛子をブレンドした程良い辛味に、ひき肉と玉ねぎの旨味がこれでもかと口の中で広がる。だからトマト担々麺も邪道なメニューのように見えても味わいは本格派だ(溶けたチーズとトマトスープをご飯にかけたら当然美味しい)。

 麺量も「何グラムかは細かく知らないけれど製麺屋さんには多めに1玉を作ってもらっている」と野澤さんが言うようにボリュームたっぷりでありながら伸びにくい麺で若い学生たちを満腹にさせる。

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 取材日も練習を終えた野球部の選手たちが来店。食べ終えると部員たちはお代を支払うとともに紙に書かれた自分の名前の横に正の字の棒を足す。10回来れば、その次はワンコインで食べられるのだ。

 そして「学生さんには儲けなんて度外視でやっているの」と野澤さんは笑うように、モツ煮やおでんなどのメニューを無償で提供することもある。伊藤は練習や授業が終わった夕方にひょこっと顔を出すと、野澤さんが「できてんじゃないかと思うくらい常に一緒にいた」と笑う同学年の右腕・青野善行(現日立製作所)とともに舌鼓を打った。

 そうなると「孫以上に可愛くて(実の)娘に怒られるくらい」というほどの愛着になっていった。卒業時に来店した時にプレゼントされたエプロンは「大切すぎて」未だに開けられていないのだという。

伊藤将司、青野善行、野澤正子さんの写真 ©高木遊

「びっくりしすぎて固まっちゃいましたよ」

 そんな濃密な時間の反動もあって、伊藤がJR東日本でプレーしていた期間には体調を崩して休店していた時期もあったが、体調も回復し伊藤も阪神に入団すると再びオフに訪れてくれるようになった。今年の1月には突然来店し「びっくりしすぎて固まっちゃいましたよ」と笑う。

 また、野球にはまったく興味の無かった野澤さんだが、今では伊藤の登板時に阪神戦をテレビでつけて祈るような気持ちで観ているという。

 気がつけば30歳で始めたお店は今年で40年目に突入。野澤さんも2月半ばに71歳の誕生日を迎えた。軽快な手捌きと明るい人柄を感じた後に年齢を聞けば驚く。学生たちの若さみなぎるエネルギーをそのまま吸収しているかのようだ。

 年末や年明けには、卒業生たちから「明日、帰っていいかな?」と電話が頻繁にかかってくるという。

「帰っておいでと言います。帰るという言い方をしてくれるのが嬉しくてね。前の日は眠れなくなっちゃうくらいです(笑)。体を動かせる限りはこのお店を続けて、喜んでもらいたいです」

  周りは海と山ばかりの土地で、日々研鑽を積み夢を追う多くの学生たちの胃袋と心を満たしてきた担々麺。都会の大学ではないからこその親密な関係性と唯一無二の味わいがここにはある。

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