鶴二は遠く離れた県庁(前橋市)をしょっちゅう訪ねた。トラックいっぱいの川場村の野菜や特産品を陳情の土産に、県議会の議員や県庁職員に「川場(村)をよろしく頼みます」と頭を下げては配ったものだった。後に県会議員となる鶴二だったが、こうした村への思いは変わることはなかった。
「川場村は貧乏だから野菜しかないんだ」
こう言いながら野菜を配っては頭を下げる鶴二の姿を今も覚えている県庁職員は少なくない。県庁でも議会でも彼の人柄は愛された。その“鶴二さん”の息子が、地方創生の成功モデル“田プラ”を作り上げたのだ。
2008年、銀座にアンテナショップ「ぐんまちゃん家」がオープン
東京・銀座。歌舞伎座の道を隔てたほぼ正面に群馬県のアンテナショップ「ぐんまちゃん家」がオープンしたのは2008年。このアンテナショップは開店10年目の節目に移転している。同じ銀座ではあったが今度は銀座7丁目だ。ショップの2階には群馬県の特産である上州牛などを利用したレストランも開設された。移転のタイミングで群馬県からこの業務を民間委託されたのが「田園プラザ川場」だった。言うまでもなく群馬県が道の駅の成功を最大限に評価した上での委託であった。委託を受けた彰一は、当時の知事・大澤正明にこう伝えた。
「少なくとも10年はやってくださいね。それだけの投資をしますから」
ところが、状況が激変する。4選を目指すのではないかと言われていた現職の大澤知事が出馬を取りやめるのだった。「田プラ」が「ぐんまちゃん家」の運営を任された翌年の2月のことだった。現職不出馬の情勢を受けて真っ先に手を挙げたのが当時、参議院議員だった山本一太だった。山本は祖父・泰太郎が群馬県草津町町長、父・富雄は参議院議員(元農水大臣)という政治家一家に生まれた三代目だった。
彰一が後援会長を引き受け支援した、参議院議員・山本一太
山本の父・富雄は年齢的には永井鶴二よりも7歳年上だ。富雄は弟のように鶴二を可愛がった。地元選出の大物、福田赳夫元総理に共に仕え、1990年に富雄が参議院議員ながら農水大臣に抜擢されると鶴二は我がことのように喜んだ。しかし、富雄はこれからという1995年に急逝。66歳だった。富雄を追うように鶴二も翌年亡くなる。県会議員在職中の61歳だった。
富雄の長男、一太はすぐさま父の後継となり参議院議員となる。一方、鶴二の長男彰一は、周辺の強い勧めがあったものの政治の世界からは距離を置く。ただ、父同士が兄弟のように仲の良かった関係から、彰一は川場村後援会の会長を引き受け、一太を支援することとなる。一太は1958年生まれ、彰一は5つ下の1963年生まれだった。
2005年8月。参議院議員だった山本一太は、時の宰相・小泉純一郎による郵政解散に際して緊急の記者会見を開き、郵政民営化法案反対の象徴的存在であった亀井静香の地元である広島6区(当時)に自らを刺客として名乗りをあげたのだ。驚いたのは彰一ら一太の後援会幹部らだった。事前に衆院への転身の相談などまるでなかった。