坂本が嫉妬した2人の男
83年、坂本は映画『戦場のメリークリスマス』への出演後にYMOを“散開”。90年には当時の妻・矢野顕子と娘の坂本美雨(みう)と共にニューヨークへ渡る。
「ほどなく矢野さんと別居。マネジャーの女性と同棲し、息子も儲けました。坂本さんは50歳くらいまで酒や煙草の量も多く、刹那的に生きていて『いつ死んでもいい』と。でも音楽一筋だった彼の中に、子どもの行く末を見守りたいという思いが芽生え、『長生きしたい』と言いだすようになった」(坂本の仕事仲間)
“世界のサカモト”と称される一方で、こんな一面も。
「素顔はとても人間臭く、昔は女の子もたくさんはべらせていたし、売れているものには何でも嫉妬していた。特に全盛期の小室哲哉へはその思いも強く、美雨さんが小室の音楽にハマっている姿を面白く思っていませんでした」(同前)
嫉妬の対象は同業者以外にも向けられ――。
「大谷翔平がメジャーで活躍し始めた頃、『あいつと女の子を取り合ったら負けちゃうかもなぁ』と嬉しそうに言っていた。まだそんな気持ちがあるんだなと驚かされましたね」(同前)
「つらい。もう、逝かせてくれ」
健康に留意するようになり「100年後に残る音楽を作りたい」と意気込んでいた坂本。だが14年、62歳の時に中咽頭がんと診断される。20年に寛解したが、同年に再び直腸がんと診断され、治療しなければ「余命半年」と告げられた。
「最初に原発巣と肝臓2カ所、転移したリンパの腫瘍、さらに大腸も約30センチ切除。がんは両肺にも転移し、1年で6回の手術を受けた。20年末からアメリカに戻らず、慶応大病院で治療に専念していたが、人とも会えない生活の中、食事もろくに喉を通らずに痩せていった」(坂本の知人)
昨年末には世界約30カ国配信のコンサートも行った坂本だったが、がんとの9年戦争の末、その生涯を閉じた。坂本の死を知った盟友・細野晴臣は川添氏に涙声でこう漏らしたという。
「YMOのプロジェクトが懐かしい。2人が先に逝っちゃって、僕だけが遺された。この先どうしたらいいんだろう……」
最期は「つらい。もう、逝かせてくれ」と近親者に告げた坂本。「聖なる音」を意味する梵字が彫られた墓で永き眠りについた。