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「あいつと女の子を取り合ったら負けちゃうかもなぁ」坂本龍一が嫉妬した“ふたりの男”

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「天才・細野、奇才・坂本、商才・高橋。YMOはそういう個性の3人だった」

 3月28日、がんで亡くなった坂本龍一(享年71)についてこう評するのは、YMOを世に送り出した音楽プロデューサーの川添象郎氏。知的なイメージから“教授”と呼ばれたが、実は意外な一面が――。

東京藝大大学院時代、「あぶさん」と呼ばれた理由

近年は環境問題にも取り組んだ

 東京藝大大学院に通った坂本。当時の風貌は、今とかけ離れたものだったという。バンド仲間のミュージシャン・伊藤銀次氏の証言。

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「服装もバンカラで、水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公のように無精ひげを生やしていたので、僕たちの間では『あぶさん』って呼ばれていた。山下達郎さんや大貫妙子さんらと麻雀卓を囲むと『麻雀っていうのはさ、結局二進法でコンピューターと同じなんだよな』なんてクールなことを言いながら、負けたらカーッとなっていました(笑)」

 転機となったのは大学院修了後の1978年のこと。前出の川添氏が振り返る。

「私の事務所に細野晴臣さんがやってきてアルバムを作ることになった。音源を聞くと、出だしが『ピ、ポッ、プー』と電子音で始まる。細野さんは『坂本龍一と高橋幸宏と3人で作った』って。全てが電子楽器で作られた世界初の音楽、それがYMOのスタートだった」

YMO時代の坂本(中央)

いきなりスターになって“売れちゃった病”に

 同年12月、新宿で開かれたフェスに出演するとアメリカのプロデューサーの目に止まり、トントン拍子で全米デビューが決まった。

「コンサートをやると8000人の観客がスタンディングオベーション。その模様がNHKのニュースで流れて人気に火がつき、毎日3万枚くらい売れた。生産も追い付かず、アルファレコードのプレス機全てがYMOの音楽をプレスしていたと言われています」(同前)

 あっという間に日本一の売上を記録したが、坂本はある“事件”を起こす。

「いきなりスターになったので、すごく狼狽していた。これぞ“売れちゃった病”だなって。世界ツアーが決まった時、坂本くんが『僕は行きたくない』って言いだしたんです。『君が行かないと話にならない』って説得すると、『分かりました。でも条件としてソロアルバムを作らせてください』と言ってきたんです」(同前)