梅津晃大は並々ならぬ思いで去年の春季キャンプに臨んだ。

「いつも落合(英二)さんから『期待しているよ』と声を掛けてもらいました。一軍スタートで体も万全だったので、必ずやってやると」

 梅津は東洋大学からドラフト2位で中日に入団。1年目に4勝、2年目に2勝を挙げたが、3年目は未勝利。勝負の4年目だった。キャンプ序盤に226球を投げ込むなど順調そのもの。しかし、2月11日の紅白戦で投げ終えた後、右肘に異変が起きた。

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「いつもと違うズキズキする痛みがありました。次の日から全力で投げられませんでした。落合さんには『大怪我になる前にノースローにしよう』と配慮してもらいました」

 期待は絶対に裏切りたくない。その一心でケアに努め、キャンプ終盤にシート打撃登板にこぎつけた。

「5割以上の力を入れると、激痛でした。1球投げる度に冷や汗がドバっと出てきました。1分くらい経たないと、痛みが引かないので、ロジンを触ったり、汗を拭いたりして時間を稼ぎました。結果はヒット1本に抑えましたが、球が遅すぎてタイミングが合わなかっただけです。最速は130キロ出るか出ないか。勝負できないと思いました」

 梅津は落合コーチにブルペンに来てもらった。2人きりだった。そして、声を絞り出した。

「すみません……。リハビリ組にしてください」

 沈黙が流れた。やがて、言葉が返ってきた。

「待ってる」

 落合コーチは続けた。

「待ってるよ。俺は待つと決めたら、いつまでも待つから」

梅津晃大 ©時事通信社

息子を案じる母の言葉、息子を支えた父の言葉

 3月、4つの病院で診察した結果、右肘内側側副靭帯断裂と判明。全ての医師からトミー・ジョン手術(側副靭帯再建術)を勧められた。3月18日、大阪市内の病院で手術を受けた。

「執刀した先生は前から知っている方で、実は木下(雄介)さんに紹介してもらったんです。何でも相談に乗ってくれる親切な先生だと。トミー・ジョン手術は3種類ほどあって、僕は田島(慎二)さんと同じ方法を選びました。右肘の骨に穴を2つ空けて、左太もも裏の靭帯を切って、それを8の字に結んで移植しました。術後1年で一軍復帰した田島さんの存在は励みになりました」

 ここから気の遠くなるリハビリ生活が始まった。

「メニューは50種類あって地味なんです。ギプスをはめた右腕をゆっくり上げるのを10回とか、小指と親指でボールを掴むのを20回とか。それを毎日2セットか3セット。続けられたのも田島さんのアドバイスが大きかったですね。『あまり気持ちを入れない方がいい。作業だと思ってこなすこと。メニュー以下でも以上でもダメ。終わったら、さっさと帰りなさい』と。かなり気持ちが楽になりました」

 加えて、仙台に住む両親の支えが大きかった。母は5年前に脳出血で倒れ、まだ言葉は明瞭ではない。だが、息子を案じ、懸命に電話で語り掛けた。

「だ・い・じょ・う・ぶ?」

 父は飛行機で名古屋に来た。

「定年退職したから、時間があると言って、毎日ご飯の用意をしてくれました。洗濯したり、買い物したり、風呂に入る時にギプスが濡れないようにビニール袋をかぶせたり、身の回りのことをしてもらいました。手術をしてからギプスが外れるまでの4週間はずっと一緒でした」

 父を車で空港に送った最終日、様々な感情が込み上げてきた。

「申し訳ないというか、歯がゆいというか、情けないというか。自分は何をしているんだろうと思いました。怪我をして、投げられなくて、父に名古屋まで来てもらって、こんなに世話になって」

 保安検査場の手前で梅津は「ありがとう」と伝えた。父は穏やかに言った。

「親なら当然だよ。名古屋生活、楽しかったな」

 父にとって大人になった晃大と過ごした時間は特別だった。搭乗口へ向かう父の背中を見つめた。そして、大きなことに気付いた。

「復帰は自分のためだけじゃない。支えてくれた人たちのためだ」