5月30日から始まったセ・パ交流戦も、いよいよ残すところ2カード(雨天中止振替試合を除く)。ここまで6勝5敗で12球団中3位のヤクルトは、今日から本拠地の神宮球場に同4位タイのソフトバンクを迎えて3連戦を行う。
ソフトバンクといえば長い間、ヤクルトにとっては高い“壁”だった。2005年の交流戦スタート以来、コロナ禍前の2019年までに勝ち越したのは2012、2018年の2回だけ(2006年は3勝3敗、2008年は2勝2敗の五分)。2015年は真中満監督の下で14年ぶりのセ・リーグ制覇を成し遂げながら、日本シリーズでソフトバンクにコテンパンにやられ、「勝つのは無理ですよ。強すぎます」とボヤいた選手もいたほどだ。
過去2年の交流戦は、ヤクルトがいずれも福岡PayPayドームでソフトバンクを3タテしているが、4年ぶりに神宮で対戦する今年はどんな展開になるのか。ヤクルトは2年連続3回目、ソフトバンクは4年ぶり9回目の交流戦優勝に向け、どちらにとっても負けられない戦いになるのは間違いない。
「やっぱり意識はしますね。選手をほとんど知ってるんで」
さて、ヤクルトにはそのソフトバンクに対して特別な思いを抱いている選手がいる。6月11日の西武戦(ベルーナドーム)に先発して6回を1失点に抑え、今季2勝目を挙げたばかりの小澤怜史(こざわ・れいじ、25歳)である。
「やっぱり意識はしますね。(選手を)ほとんど知ってるんで」
そう話す小澤は、静岡・日大三島高から2015年のドラフトでソフトバンクの2位指名を受けてプロ入りした。背番号は「40」。ところが故障もあって4年目の2019年からは育成契約となり、2020年に戦力外通告を受ける。それは「苦しい」5年間だったという。
「ケガもあったし結果も出せなかったし、すごいもがいてた時だなと思います。3年目(2018年)にケガをして、4年目、5年目は育成だったんで、特に苦しかったのは3年目ですね。ケガをして何もできなかったんで……」
その5年間の中で、今も印象に残るのは2017年8月24日のデビュー戦(西武戦)。リリーフとして初めて本拠地・福岡ヤフオク!ドーム(現PayPayドーム)のマウンドに上がった時には、あらためてプロ野球選手になったことを実感した。
「ベンチから出ていった時に、明かり(照明)とお客さんがすごくて。出た瞬間『ウワーッ!』ってなったのはよく覚えてます。もう(ファームの試合とは)全然違いましたね」
育成契約は今をつくる土台となっていた
2018年に首から背中を痛め、翌2019年から背番号「123」の育成選手になると、以降はソフトバンクのユニフォームで一軍に戻ることはなかった。ただし、今振り返ってみれば決して「苦しい」だけではなく、現在に繋がる、いわばプロとしての土台を築いた時期でもあった。
「もう全然(今に)繋がってると思います。体づくりはしっかりやれてたし、体のケアもそこ(ケガをして)からはだいぶ気にするようになったし。そういうのがあったから、あれ以来そんなにケガもせずにやれてるのかなっていうのもあります。キツい時に諦めないというか、そういう気持ちもだいぶついたと思います」
クビになった時、ホークスコーチたちの恩
当時は田之上慶三郎投手コーチ、若田部健一投手コーチといったファームの指導者に、ずいぶん気にかけてもらった。田之上コーチには、球団から戦力外通告を受けて間もない時期に、食事に誘ってもらったこともあったという。
「ホークスをクビになった時に田之上さんがゴハンに連れてってくれて。その時はまだヤクルト(との契約)が決まってなかったんですけど『これから先の方が長いから』みたいな話をしていただいて、それで頑張ろうって思いました。(ヤクルトで)支配下になった時とかも、連絡をいただきました」
12球団合同トライアウトを経てヤクルトと育成契約を結び、支配下登録を勝ち取ったのは移籍2年目の2022年6月。前年の途中で、思い切ってそれまでのオーバースローをサイドスローに変えたことが、功を奏した形となった。
支配下登録の時点で既に交流戦は終わっていて、昨年は公式戦で古巣を相手に投げる機会はなかったものの、実は開幕前の3月12日に神宮で行われたオープン戦で1度対戦している。当時はまだ育成選手であり、2死から四死球を挟んで3本の適時打を浴びるなど、2/3回で3点を失った。