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NHK大河ドラマでは無視されている…「本能寺の変」後でハッキリとわかる織田信長と徳川家康の本当の関係

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この逃避行に関しては一次資料がなく、江戸時代の記録で数通りのルートが伝えられている。そのなかでは、先の『石川忠総留書』に記されたものが信頼度は高いとされる。

それによると、6月2日には堺から宇治田原(京都府宇治田原町)まで13里(約51キロ)を移動。3日には宇治田原から小川(三重県伊賀市)までの6里(約23.5キロ)。そして、最終日の4日には小川から四日市(三重県四日市市)まで17里(約66.7キロ)を進んだ。かなりの強行軍である。さらに白子(鈴鹿市)まで移動して船に乗り、知多半島の常滑(愛知県常滑市)経由で三河大浜(愛知県碧南市)に着き、岡崎城に戻っている。

家康の命を救ったもの

逃避行の最中、家康一行が、落ち武者狩りをねらう百姓たちの襲撃を受け続けたのは事実のようだ。光秀が「家康の首をとれ」という指令を出した、という記録はない。しかし、当時の百姓にとっては、自分たちの村を自衛するための一環として、敵方の逃亡武将すなわち落ち武者を討つことは、慣例だったのだ。

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家康の家臣、松平家忠の『家忠日記』には、「此方の御人数、雑兵ども二百余りうたせ候」と記されている。

この記述は、家康に随行する者のうち200余人が討ちとられた、と解釈されることもあるが、正しくは、家康方が襲ってきた雑兵ら200余人を討ちとった、という意味だろう。いずれにせよ、逃げているあいだ中、家康たちがねらわれ続けたということである。

その際、頼りになったのは、逃避行に随行した茶屋四郎次郎だった。信長の横死を早馬で家康に知らせる際、ありったけの金銀を運んできたようで、移動の途中で危険な目に遭うたびに、相手にカネを渡して家康を守ったという。

イエズス会の史料である『日本耶蘇会士年報』や、フロイス報告書『日本年報補遺 信長の死について』などにも、家康方には兵士が多かったばかりか、金銀の準備が十分だったため、敵に襲われても逃げとおすことができた旨が書かれている。この金銀を用意したのが四郎次郎だと思われる。