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NHK大河ドラマでは無視されている…「本能寺の変」後でハッキリとわかる織田信長と徳川家康の本当の関係

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この当時の落ち武者狩りには、逃亡する武将を倒し、鎧や刀などを剝いで、売却して金品に換えるという目的もあった。だから、金品をあたえることには大きな効果があった。

殺された部下との明暗を分けたもの

ところで、家康は堺で、武田の旧臣で勝頼を裏切った穴山梅雪と一緒に過ごしていた。梅雪も信長に領土保全の礼を述べるために、家康と一緒に安土城を訪れ、その後も行動をともにしていたのである。しかし、家康の伊賀越えには同行しなかった。

『家忠日記』には、梅雪が逃避行の途中で自害に追い込まれたと記されている。また、『三河物語』には、家康に危害を加えられる危険性を感じて別行動をとった梅雪が、宇治田原で落ち武者狩りの餌食になり、討たれたと書かれている。

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なぜ、梅雪は命を落とすことになったのだろうか。フロイス報告書『日本年報補遺 信長の死について』には、「三河の国主(家康)は、多数の人々と賄賂のための黄金を持っていた」のに対し、梅雪の周りには兵も少なかったので略奪に遭い、殺されてしまったという旨が書かれている。要するに、家康には兵力と金品があったのに対し、梅雪にはなかった。そこで明暗が分かれたというのだ。

梅雪が命を落としたことからも、「伊賀越え」と通称される逃避行が、きわめて大きな危険をともなったことはまちがいない。「どうする家康」で描かれたように、わずかな同行者しかいなかったとしたら、家康の命も守れなかったのではないだろうか。

家康と信長の本当の関係

ところで、岡崎城に戻った家康は、すでに6月4日には、蒲生賢秀と氏郷の父子に宛てた書簡に、信長の弔い合戦をして光秀を討つ決意を記している。そして5日には、家臣に出陣の用意を命じている。

だが、悪天候などを理由に出陣は延び、ようやく14日に岡崎城を出陣して鳴海(名古屋市)に着陣したが、その前日には、羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を討ち果たしていた。19日に秀吉からの「光秀を討ったので帰陣されるように」という連絡を受けとって、岡崎城に戻っている。