「もしも推し選手が罪を犯したら……」
そんな悩みを抱えることなくプロ野球を応援することができている幸せな皆さま、こんにちは。僕をプロ野球の世界に導き、埼玉西武ライオンズを我が球団として応援することを運命づけた推し選手は、僕にそんな重くてレアな悩みを突きつけました。2016年2月2日、清原和博、その人です。
正義の名のもとに推しを糾弾することができたなら。軽蔑のなかで推しを視界と記憶と感情から消去することができたなら。どんなにラクだったろうと思います。輝かしい栄光の日々が汚れた過去のように扱われる無残な時間。「もう一度機会を」「人生やり直しができる」「野球界のなかにこそ更生の道はある」そんな言葉を発すれば、犯罪者の側に立つ者として巻き添えになるような向きさえありました。「キャンセル」して、軽蔑して、今初めて知ったような顔で糾弾するほうが賢いのだとわかっていても、自分の推し心に嘘はつけないものです。ご本人の歩む道の険しさとは比べようもありませんが、僕もその日から茨の道を歩んでいるような気持ちでいました。許されざる者の歩む道です。
しかし、今年の夏、「もう許されてもよいのではないか」とフッと思ったのです。反省や更生は永久につづくのだとしても、もはやその「キャンセル」こそが罪作りな冷酷さになっているのではないかと心の向きが変わったのです。歴史と事実を捻じ曲げるような「キャンセル」はもう止めて、再び同じユニフォームに袖を通してもらい「ライオンズの清原和博」だと認めることはあってしかるべきだろうと、力強く思ったのです。
我が推しは、もう一度光り輝き、日がまた昇るためのステップをしっかりと踏みしめてここまで来たのだから、と。
「許してもよい」までに必要な「罰」と「赦し」と「説明」と「天運」
事件の第一報を聞いた瞬間から僕自身はいつか許すことを決めていました。ただ、簡単には許されないだろうことも理解していました。それぐらいショッキングな出来事でした。だから、どうしたら「許してもよい」ことになるのだろうかと考えてきました。「推し」という贔屓目を除いても許せる時節はいつ訪れるのだろうかと。そのなかで思い至ったのが「罰」と「赦し」と「説明」と「天運」というステップでした。
まず、「罰」のステップ。推しに罰を与えるのは忍びないですが、「罰を受けていない」ことをもって「許す以前の段階」と考える人は多いもの。その点で清原さんは司法によって「懲役2年6月、執行猶予4年」の有罪判決を受け、すでに執行猶予期間を満了しています。これ以上、社会が負わせるものは何もないはずです。これが所属球団や所属事務所といった身内が独自に科した処分であると、軽過ぎたり逆に重過ぎたりといった懸念もありますし、「それは罰ではない」「不十分である」「身内が何を裁けるものか」といった終わりなき非難も生まれかねませんが、司法の裁きは社会全体が合意した線引きです。司法が定める罰を受けたことは「許してもよい」ことになるための確かな一歩だろうと思います。
そして「赦し」のステップ。被害を受けた人や傷ついた人がいて、その人がまだ強い処罰感情を抱いている状況であったなら。たとえ司法の追及は終わったとしても、被害を受けた方や傷ついた方を差し置いて「許してもよい」と思うことは難しいでしょう。清原さんの場合、事件によってもっとも傷ついたのはご家族であろうと思いますが、昨年12月31日にかつてのパートナーであり、一部報道では清原さんの所属事務所の代表を務めていると言われる亜希さんのInstagramにて「#清原家の人々」と題する家族4人の写真と「また来年もこの人たち丸ごと宜しくお願い致します」というコメントが公開されました。これによって、一番辛い思いをしたであろう人々からもこぞって応援されていることが明らかとなりました。ご家族から「丸ごと宜しくお願い」されたことは、「許してもよい」ことになるための大きな前進でした。
そして「説明」のステップ。司法の裁きを受け、被害を受けた人や傷ついた人が赦したとしても、それで事件が消え去るわけではありません。「内容はよくわからないけれど何かやったらしい人」のままでは許すも許さないもありません。何が事実で、何が事実無根で、何を思って、何を改めるのか、それをつまびらかに説明して初めて世間は検討を開始するのです。言えないこと、言いづらいこと、言えばさらに非難を招くこともあるかもしれませんが、出来得る限りを説明したときに初めて「内容はわかった」「それがすべてであるならば」「検討してもよい」という人も出てくるのです。「まだ何かを隠しているかもしれない」と思えば、誰が味方になって巻き添えを食うような道を選ぶでしょう。清原さんはテレビ出演を含めた自身の言葉で語る機会と、それを纏めた各種の出版物とで繰り返し説明をしてきています。治療の経過や、危ういフラッシュバックの瞬間についても繰り返し語ってきています。記者との立ち話や数行の短い文書で説明を済ませたわけではありません。その説明がすべて真実かは確かめようもありませんが、少なくとも「伏せたまま」になっていることはないはずです。聞かれるであろうことはすべて聞かれ、答えてきたはずです。ならば「許してもよい」という検討のスタートラインには立っているはずです。