「しんどいことの方が、多かったわ。いいこともたくさんあったけどな」

 藤田一也。日本一守備がうまいと言われた男。2004年に横浜ベイスターズ(現・DeNA)からドラフト4位で指名され、12年にトレードで東北楽天イーグルスに移籍、22年に古巣DeNAに戻った、今年で41歳になる藤田は19年間の現役生活に幕を下ろした。

 あれは夏前だっただろうか。まだ引退を表明する前の藤田に会いに、横浜スタジアムを訪れた。私は07年から12年までの5年半、藤田とともにベイスターズでプレーしていたため、彼との思い出はお互いが若かった頃のイメージしかない。楽天に移籍してからも何度か会ってはいたが、横浜に戻ってきてからは、この日が数年ぶりの再会だった。グラウンドで見ると、若い頃のイメージと重ねて見るからか、「ハマの牛若丸」も随分と歳をとったように見えた。

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「もう、おっちゃんやで。ワンプレーやったら、全然問題ないけど、1試合続けて、まして1年続けては、無理やな。必死やわ」

 そう言って笑う顔には、若い頃にはなかったシミが無数に見え、シワも深く刻まれていた。もう、若くない。それでも、ノックを受ける藤田の足の運び、グラブさばきは、若い頃よりも格段にうまくなっていた。仮に野球が全くわからない人が見たとしても、「美しい」と思うだろう。それくらい、何かの“舞”を見ているかのような、洗練された、無駄のない動きだった。私が藤田の守備を初めて見たのは、私自身のプロ1年目、07年のこと。当時のショートのレギュラーと言えば、その前年に2,000本安打を達成したばかりのスーパースター・石井琢朗だ。高卒ルーキーだった私は、石井琢朗は知っていても、藤田一也は知らなかった。それでも、ショートの“2番手”でノックを受けている、異常に守備がうまい選手に目が留まらないはずがない。

(あの、人間離れした動きをしている人が、“控え”なのか……? プ、プロのレベルって……。すごいところにきてしまった……)

 元々、若い頃から守備に関しては絶大な評価を受けていた。しかし、その才能が開花するまでには、少しの時間を要した。

藤田一也 ©時事通信社

石井琢朗の壁

「圧倒的な差を感じたよ。何より、芯の強さ。守っていて、全くブレない体幹、球際の強さ、送球力、足の運び。何から何まで、叶わない。正直、こんな人、初めて見た」

 近畿大学から“ポスト石井琢朗”と期待され入団。いきなり通用するとは思っていなかったものの、自信のある守備であれば通用するだろう。しかし、そんな淡い期待は目の前でプレーするスーパースターの動きを見ることで、儚く消え去った。

「大学って、最大でも3つ年上やん。なんとかなるかな、って思う範囲やったんよ。でも、12個上で、ましてや球界を代表するショート。いつか追い抜いてやろう、とか思えんかったね。まずは、全部真似しようと思った」

 藤田にとって、初めての体験だった。自分より守備の上手い人は、これまでいなかった。教材といえば、テレビ番組の「珍プレー好プレー」の最後に流れる好プレー集。今のようにYouTubeで動画がみられない時代に、この映像だけを頼りにほぼ自己流で守備を磨いてきた。人生で初めて誰かの真似をし、一から基礎練習に励んだ。

「学生時代も、基礎練習はかなりやってきた。でも、プロの基礎練習は全く違った。石井さんの動きは、とにかく無駄がない。最短で、最速で、最少の動きで足を運んで、軽く投げても一塁までボールが届く。この動きができないと、1年間ショートで試合に出続けることが出来ないんだと感じた。とにかく、徹底的に真似をした」

 目の前には、一切力みなく、淀みなく動く最高のお手本。藤田にとって最高の環境で守備を磨いていったが、当時の藤田と石井琢朗の間には、あまりにも大きなレベルの差があった。

「石井さんの動き、ようやく分かってきたのは、30歳を超えてから。“あぁ、あの時の動きって、こういう意味があったんだ”、“あの時言ってたのって、こういう状況のことか”って。あれくらい力が抜けるから、144試合守れるんだなぁって。ボールとの距離感、タイミング、一言で言うと、“間”。当時は分からなかったけど、数年経って試合にたくさん出るようになって、ようやく分かったよ」

 プロの技を一から学び、その背中がかすかに見えてきた頃、スーパースターはチームを去ることとなる。当時38歳となり衰えの見え始めた石井に、球団は引退を勧告。これを拒否する形で広島カープへ移籍。実に約12年間空くことのなかったショートの椅子が、突如空いた。藤田にとって、これ以上ない形でチャンスが舞い込んだ。