なぜ都内のホームレスは「聖書を読みがち」なのか? その意外すぎる答えを、取材のため2021年7月23日~9月23日までの約2ヶ月間をホームレスとして過ごしたライターの國友公司氏の新刊『ルポ路上生活』(彩図社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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都内の炊き出しを歩いて回る鉄人
8月12日。
翌日の昼過ぎ、白鬚橋の周りに続々と人が集まってきた。みんなから「ター坊」と呼ばれている40歳くらいの男が、「俺金ないんだから貸しておくれよー。頼むよー」と集まった男たちに言い回っている。
このター坊という男はとにかくよく喋る。話し相手を見つけては相手が相槌を打つ隙も与えず、延々と話し続ける。「もう終わりにしてくれ」といった顔で相手がその場を立ち去ろうとしても、横をずっと付いて回っている。面白そうな男だが同棲するとなったら黒綿棒よりもはるかに鬱陶しそうである。
みんなが集まっている理由が炊き出しであることは聞かなくとも分かりきっている。そうと知りながら何食わぬ顔でダンボールの上に待機している自分がとても卑しく感じた。しかし、途中から「来ねえなあ」「今日は休みか」という声があちこちから聞こえてきた。そして、私の近くに座っていた3人組のおじさんの一人がハッキリと言った。
「ないな」
「やっぱり炊き出しないですか?」
私が横から聞くと、一緒に行動していたかのようなテンションでおじさんが答える。
「ないなら前もって言ってくれればいいのにな。お盆だから炊き出しも休みなんだよ。ないと分かっていたらわざわざ来ないのによ」
たしかに周知する方法がないのであれば、先週の時点で言っておいてくれればいいのに。
「じゃあ今日は飯抜きですか?」
「いや、もう腹いっぱい。午前中は玉姫公園で炊き出しがあったから。昼は上野公園でもあるだろ。上野公園を捨ててこっちに来たのによ。悲しさを通り越して虚しいよ」
玉姫公園とは山谷にある公園だ。ブルーシートで覆われた小屋がいくつか立っており、ホームレスが暮らしている。上野公園の炊き出しは私も行った火・木・金・土に開催されている韓国系キリスト教会主催のものだ。
「君は昼飯食べたのか? 余っているからこれやるよ。いいいい、食えって」