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 1980年代後半に目的が達成されると、PLOはテロリストに攻撃をやめさせた(もっとも戦略を理解しない一部の独自路線を行く分派の集団は、独断で無意味なテロ攻撃を続けた)。その後10年間、PLOはイスラエルとの交渉による和平という目標を追求し、1993年にワシントンでオスロ合意に調印するというクライマックスを迎えた。

1993年9月13日、ホワイトハウスでイスラエルとパレスチナ解放機構の間の和平協定調印の後、握手をするイスラエルのラビン首相(左)とアラファト議長。中央はクリントン米大統領 ©時事通信社

 だが、アラファトも、その重要な交渉相手であったイスラエルのイツハク・ラビン首相も、身内の「強硬派」の力によって、みずからの行動の自由が次第に制限されるようになっていった。

 強硬派は、和平調停に必要な領土や難民帰還の権利に関する譲歩のようなものを受け入れなかった。1995年にラビンが過激な右翼のユダヤ人に暗殺されると、パレスチナはテロ攻撃を再開した。このとき、イスラエルは選挙戦の最中だった。

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イスラエルとパレスチナ、「二国家共存」戦略のゆくえは

 攻撃はPLOが仕掛けたのではなく、台頭するイスラム原理主義運動によるものだった。イスラム原理主義運動は、かつての英国パレスチナ委任統治領のごく一部にパレスチナ人の国を作るような交渉は断固拒否した。これはもうひとつの合理的で達成可能な目標を持つテロ活動である。目標とは、アラファトの「二国家共存」戦略を阻止することだった。

 ハマスやイスラム聖戦機構の爆弾攻勢は、とくにバスを標的にして、多数のユダヤ人犠牲者を出した。ラビンの後継者であり、ラビン暗殺による同情票によって容易に勝利を得られると期待されていたサイモン・ペレスからイスラエルの有権者を離れさせ、ベンヤミン・ネタニヤフを支持させることが狙いだった。ネタニヤフは隠れ強硬派であり、和平交渉を無期限に引き延ばしてくれそうだったからだ。

2022年にイスラエルの首相となったベンヤミン・ネタニヤフ ©時事通信社

 その狙い通り、その後3年間、和平交渉は事実上、進展しなかった。それどころか、以後ずっと進展していない。両陣営の強硬派は、マルクス主義者が言う「同じ目的を持つ同盟者」であり、二国家共存による解決を妨害するという共通の目的を持ち、うまく成功している。