非嫡出子として生まれ養子に出されたからこそスターに
笠置の出生(しゅっしょう)は、誰にも望まれぬものだった。というのも生母は、近在の富農の家で女中奉公をしていた。笠置は、母とその家の若い跡取り息子との間にできた結晶だった。母はまだ18歳か19歳だった。
しかし、結果的にはたかが奉公人の小娘と、「白塀(しろべい)さん」と呼ばれるほど白い土塀がつづく旧家の家柄からして、身分違いの私通だった。
その後、母は富農の家長から因果を含められて暇を出された。奉公先から遠からぬ引田町の実家に身を寄せた娘は、女児シヅ子をひっそりと産んだ。
元来、虚弱だった父も、笠置が生まれた翌年に22か23歳の若さで死んだ。
この引田町というのは播磨灘に面する港町で、醬油醸造で栄えた古い町並みがいまも残る。町の西側を清流が流れ、榛の木の樹陰にシヅ子の生家があった。この女児が、曲がりなりにもその地で成人していたとすれば、後年の笠置シヅ子は誕生しなかったはずである。
まだ10代の実母は乳が出ず、里帰り出産した養母が授乳を
さて、どんなことが笠置の運命の転換点になったのだろうか。それは乳児をかかえて賃仕事(ちんしごと)をして、家計を切り盛りしていた笠置の実母が、乳の出が悪かったことにあった。
乳呑児(ちのみご)に一日じゅうピイピイ泣かれては、仕事もはかどらない。そんなとき、亀井うめという大阪に嫁いでいた女性が、出産のため引田町の実家に里帰りしていた。次男を無事に生んだうめは、どういう経緯(いきさつ)があってかはっきりしないが、親切にもシズ子のために哺乳を買って出てくれたのである。
後年、笠置はうめのことを「義侠心(ぎきょうしん)がある」と評しているが、そんな心で授乳を引き受けたのだろう。
うめは、引田町の多額納税者でメリヤスと手袋工場を経営する中島家当主の妹だった。人情家で世話好きのうめは、大阪で薪炭(しんたん)や米・酒をあつかう仕事をしていた亀井音吉と所帯を持っていて、すでに長男もいた。