哺乳が2カ月もつづいた頃には、情も移り手放すのが惜しくなるのは人の常である。うめにとっては男の子二人に女の子だから、余計そんな気持ちが強くなってきたのかもしれない。
笠置は養母うめのことを「義侠心がある」と評した
いっぽう、生母としてみれば若い女の身空(みそら)で乳児をかかえ、田舎町で生計を立てていくという境遇は、今日でも決して楽ではないであろう。ましてや時代は大正である。
たぶん、親のすすめもあったのだろう。生母は、笠置を手放す決心をしたのである。
いっぽう、裕福というほどではないうめが、笠置を「可愛いから」「情が出て」という理由だけで、夫に相談もせず養子にするのだろうか。
この点に関して笠置は、養母の気持ちを自伝の中でこう推量している。
「養母の気持ちは今もってわかりません。決して私が別れ難ないほど可愛らしい子供だったとは思えませんので……」
と書くが、それでも持病の心臓脚気があるうえ、実の子の育ちもいまひとつで、何かのときの頼みに自分をもらう気になったのかもしれない……と想像する。
筆者の考えるところ、どれも間違いではないだろう。いまと違って子どもは労働力という時代でもあった。
笠置が生まれて半年たつ頃、うめは同年生まれの次男の正雄といっしょに、彼女を大阪へ連れて帰ることとなった。
養母はシヅ子に血のつながりがないと知られたくなかった
実子として笠置に愛情をそそぐうめには、大きな悩みがあった。娘に出生の秘密を知られることだけは、何があっても避けたかったのだ。
二人がずっと大阪にいれば問題はないが、うめはことあるごとに香川の実家に帰らなければならない。
相生村の「白塀さん」の家にも、大正4年(1915)に亡くなった跡取り息子の法事があるので毎年、出席していた。そのうちうめは、物心がついた娘のミツエに、出生にまつわる隠し事がいつバレるかと、大いに怖れるようになった。そのためうめは、ミツエが8歳になって以降は「白塀さん」の法事にも顔を出さなくなった。親せき縁者にも固く口止めしたことはいうまでもない。