劉暁波の馬英九評価
台湾の政治体制は、1997年の第4回憲法改正以降、フランスに近い「半大統領制」に分類される仕組みを採用している。すなわち、直接選挙で選ばれた総統は行政院長(首相)を任命することができ、総統は国家の安全に関する権限を、行政院長はその他の行政に関する権限を分担して掌握する。一方、総統とは別の直接選挙で選ばれた、立法委員によって組織される立法院は、不信任決議により行政院長を解任する権限を持つ。そのため、台湾の総統は政治構造上、政権を安定的に運営するためには立法院との関係にかなり気を遣わなければならない(松本充豊「総統に求められるものは何か」)。
陳水扁政権期、民進党は2001年と04年の立法委員選挙で第一党とはなったが、過半数の議席を獲得することはできなかった。そのため、00年に歴史的な政権交代が起こったにもかかわらず、台湾では民進党の思い通りの改革が進んだわけではなかった。そのような状況下、台湾社会にはさらなる国会改革を求める世論があり、それが民進党と国民党に対する圧力となったことから、05年6月には両党が賛同する形で第7回改憲がなされた。この改憲では、さまざまな重要な変更の一つとして、立法院の議席半減、小選挙区比例代表並立制が規定された。これにより、小政党が立法院の議席を獲得するのは難しくなり、民進党ないし国民党が安定的な政権運営をおこなえるようになる可能性が高まった。
この新たな制度の下、陳水扁総統は2期目の任期中、側近や身内の金銭スキャンダルにより支持率を大きく低下させた。そのため、08年1月の立法委員選挙では、国民党が民進党に圧勝した。さらに、同年3月の総統選挙では、国民党の馬英九が勝利する。馬は陳水扁政権が2期目に中国との関係を緊張させたのに対し、台湾海峡両岸関係の改善による台湾経済の活性化を訴え、広く支持を集めた。
後で述べるように、馬は2期目の任期中、その対中融和政策が原因で支持率を著しく低下させ、国民党は2016年に政権を再び民進党に奪還されるにいたる。しかし、馬は当初、決して共産党に媚びた政治家と評価されていたわけではなく、むしろ東アジアの政治情勢を好転させるリーダーとなることが大いに期待されていた。そのことは、大陸中国の民主活動家である劉暁波(1995-2017)が当選前の馬をきわめて高く評価していたことからもうかがえる。
劉は89年の天安門事件における民主化運動のリーダーの一人で、その後も人民共和国にとどまり民主化のための文筆活動を続けた言論人であった。劉は天安門事件後に複数回にわたり投獄されており、共産党政権とは強い緊張関係にあった。後の08年には共産党の独裁を批判する「〇八憲章」の発表を他の活動家らと準備し、逮捕・投獄される。服役中の2010年にはノーベル平和賞を受賞するが、授賞式への出席は認められず、その後、病に倒れ17年に死去した。
劉は2000年代の言論活動のなかで、共産党政権が台湾に「統一」を要求するのに対し、台湾が「民主」を絶対条件として応じることにより、大陸中国も民主化していくことへの期待をしばしば表明していた。そのため、劉にとってパンダを利用したパフォーマンスによる統合の推進などは論外であった。劉は決して国民党支持者というわけではなく、共産党政権に民主化を要求してくれるのであれば陳水扁政権にも期待をかけていた。
では、劉がなぜ馬を高く評価していたかというと、総統就任前の馬は89年の天安門事件に強い関心を示し、天安門事件の問題が解決しない限り台湾海峡両岸の政治協議には応じられないという厳しい姿勢をとる政治家だったためである。また劉は、陳水扁政権の台湾独立志向と比べた時に、統一を志向しながらも民主を重視する馬英九の態度はより望ましいと考えていた。なぜなら、前者は共産党政権、大陸中国の民意、アメリカ政府の三者の機嫌を損なうのに対し、後者は共産党政権の恨みしか買わないためである(劉暁波『統一就是奴役』)。