「悪口」を言わないのは「言えない」から
しいたけ 僕はそういうネガティブな面も、必ずしも悪ではないと思っていて。たとえば結婚する相手って、好きなものが一緒の人より悪口が似ている人、「あの人はいい人だけどちょっと疲れるね」みたいなことが共有できる人がいいんじゃないかと思っているんです。「蜜」よりも「毒」が分かり合える人のほうが、本質的なところで繋がれる気がしていて。
村田さんは作品を通して「毒」の部分を出しているかもしれないとも思うんですが、もし本気で人の悪口を言ったらどうなるんでしょうか……? 興味があります。
村田 そうですね、うーん……(しばらく考える)。私、悪口を言う才能があんまりなくて。
しいたけ 才能、というと?
村田 悪口が言える人って、何か「基準」がありますよね、人を裁く……。
しいたけ 確かに、裁きますね。
村田 基準があれば、それを乗り越えてくるから失礼だと言える。ちゃんと自分の考えを持っているから、悪口が言えるのだと思うんですが、私の場合は小さい頃にその基準みたいなものが壊れてしまったんです。人に対して悪い感情を持ったとき、なぜそういう感情を持ったのかをすごく分析する子供で、特に小中学生の頃にそういうことを考えすぎて、わからなくなっちゃったんですよね、誰かを悪く言う基準というのが。
しいたけ 誰かに怒ったり、何かに怒ったりすることってないんですか。
村田 ちゃんと怒ったりできることに憧れがあって、ハラスメントとか差別的なことに対して、きちんと怒れる人になりたいと思うんです。でも基準が壊れてしまっているので……たとえば浮気なんかについても、ひょっとして一夫多妻制の国から来た人だと何も思わないかもしれない、と考えてしまうと、どう裁いていいのかわからなくなってしまう。子供の頃に基準をなくしてしまった、そのことは自分の「歪み」だとも思うのですが。
しいたけ どうしてそうなったんでしょうか。
村田 小学生の頃から小説を書いていたせいもあるかもしれません。自分の中で起こること、周囲で起こることを観察して、ずっと分析していました。
たとえばみんなが同じ先生のことを「気持ち悪い」と言うのは何なのか、容姿なのか言動なのか、確かに私も似た感情を持っているけれど、それはどこから来るのか、何かに似ているから嫌われているだけなのか……あまりに突き詰めていたら、嫌だと思う感覚がよくわからなくなってしまいました。