小説をはじめフィクションの力というのは、ぜひもっと活用されていいと思っています。先ほどから短期的な刺激ばかり浴びるのではなく、モヤモヤしながら自己対話もしたほうがいいと私は強調していますね。それはその通りであるものの、あまりストレートに自分のアイデンティティと向き合うと、けっこうなストレスがかかります。なので自分と向き合うときは真正面からぶつかるより、フィクションを介したほうが安全です。
たとえば家族について悩みがある人が、いきなり自分の家族のことを考え詰めると負担がある。でも、家族を取り上げているフィクションをみれば、そこに描かれている家族について考えることで、悩みの壁打ちができるわけですね。いきなりアイデンティティに直結する話題を直接悩むのではなく、フィクションを鏡のように使いながら悩むわけです。ワンクッションおいたほうが、かえってよく見えてくるものだと思います。
自分の状況にぴったり当てはまるフィクションを探す必要もありません。映画監督・是枝裕和さんの作品はよく家族のテーマを扱いますが、映画を観ながら「これは私の家族そのものだ」と思う人はそれほど多くないでしょう。映画で描かれている家族像に自分がぴったり当てはまらなくても、そのズレを認識することを通して、自分の家族について深く考えることができたりもしますよ。
人間関係の練習不足で、適度な距離感を見出せない
――小説をはじめとするフィクションを「良き媒介」として、自分と向き合うきっかけをつくっていけばいいのでしょうか。
谷川 そうですね。加えていまは皆、悩みとうまく付き合うのが苦手になっているじゃないですか。自己対話に慣れていないし、他人との付き合いも類型化させがちなので、明らかに悩んで苦しんでいる人に対してどこまで踏み込んでいいのかもわからなくなっています。おせっかいになるのを極度に恐れているところがありますよね。
ふだん大学で学生たちと接していてもそれは感じます。学生同士で相手に踏み込もうとはしないし、いったん踏み込んだと思えば土足で相手の心の内を荒らしすぎたりする。人間関係の練習不足で、適度な距離感を見出せないのです。
いわば、自分や他人の抱えている悩みや本音との付き合い方が不器用なんですよ。だから、悩める人は自分ですべて抱え込むか、またはSNSにあけすけに暴露するかという極端な選択をしてしまう。