いまの時代は、心を分けない方向へ進みがちですから、流されないよう気をつけたいところです。
「推し」文化などは、心を分けない方向性の一つに思えます。もちろん、だれかのファンになるのは楽しいことです。でも、好きな気持ちの表明方法や応援のしかたはそれぞれ独自でよさそうなものなのに、不思議なことにみんな同じ流儀や解釈で「推し活」をしたがりますよね。SNSで見かけたのと同じような感想や考えを持つようにみずから調整しているようなところも見受けられて、それはまるで自分の心を単純化する訓練をしているかのよう。
何を主な関心事とするのかは自分次第でいい
政治的な言動でも、世界中で「パッケージ化」が進んでいます。クリス・ベイルという人の調査なのですが、米国ではSNSで「私は民主党支持です」と明言したとたん、共和党陣営からも民主党陣営からも、SNS上で猛烈に絡まれるらしい。それに対応しているうち、共和党寄りの考えを持っている民主党支持者でも、自分の意見や言動が典型的な民主党員にそれに調整されていく。
外から攻撃されると人は自分のアイデンティティを確認しようとしますから、民主党なら民主党の政策や典型的な党員のふるまいをチェックしてそこに寄せていくのです。政治的に個人として在ることは捨て、自分を典型的民主党員として単純化してしまうのですね。もちろん、党派を入れ替えてもこれは成立します。
本来なら、いろんな事情や考えを持つ人がいていい。何を主な関心事とするのかは自分次第でいい。民主党寄りの考えの共和党支持者がいたっていいし、民主党員の大半が大注目している政策に一切関心を持たない民主党支持者がいたっていいわけです。それなのに、現代人は自分の複雑さや曖昧さ、グレーゾーンを、進んでそぎおとしているところがあります。
――人間性を手放さないために、長期的なしみじみとした楽しみにも浸ろう、というわけですね。
谷川 そうです。たとえば伝統芸能なんかはいいですよ。すぐに高揚感が全開になったりはしませんが、じっくりと関心を積み上げていって、ようやく最後のほうになって「楽しみ曲線」がぐいと上がる。こちらも腰を据えて付き合うしかなくなります。
純文学も同じですね。短期的な楽しみはないかもしれない。でも、読み進めるうち、すこしずつジワジワと込み上がってくるものがある。いい作品に出会うことができれば、そういうじんわりくる感慨の証として、何気ないある一節が、読み終えたあともずっと胸に残ったりする。私が南木佳士さんの『ダイヤモンドダスト』の冒頭をずっと忘れられないのは先に述べましたが、同じことはだれの身にも起こり得ます。