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 なかでも忘れられない経験となったのが、下半身麻痺と内臓の病気で入退院を繰り返していた、男性患者のAさんです。

 内臓の病気が悪くなってから長期入院となったAさんは、何年も同じ個室にいて、漫画やラジカセを持ち込み、そこはまるで自宅のようになっていました。

 長い期間、麻痺や病気と付き合ってきたAさんは、治療や処置の知識も豊富で、新人看護師に「そのヘラでこの軟膏を塗るんだよ」などと教えてくれることもありました。新しい白衣を着ていると「いいじゃん」とほめてくれました。そんな気さくなAさんのことが、私たち看護師はみんな大好きでした。

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『ナースの卯月に視えるもの』(秋谷りんこ)文春文庫
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 一方で、入院が長くなると、看護師にわがままを言うようになる患者さんが増えるのも現実で、Aさんも例外ではなく、機嫌が悪いときはナースコールを連打することがありました。

「頭がかゆいからドライシャンプーして」

「早く車椅子もってきて」

「ベッドにすぐ戻りたい」

「タバコ吸いたい」

 私たちは、そんなわがままをときにたしなめ、ときに許し、彼の病室を住まいとして整えていきました。でも、内臓の病気の悪化にともない、威勢のいいわがままも次第に聞けなくなっていきました。Aさんは、少しずつ車椅子に乗れる時間が減り、寝ている時間が増え、次第に衰弱し、亡くなりました。

 病棟から運び出されて、ご遺体を安置しておく場所で、看護師たちは集まって彼の死を悼み、肩を寄せ合って泣きました。

「俺が死んだら悲しい?」と言うAさんに「悲しいですよ」と伝えたとき、寂しそうに笑った顔が、今でも忘れられません。あのとき、「死ぬなんて言わないでください」「大丈夫です。頑張りましょう」……そう声をかけるべきだったのか。でもそのどれも、私の本心とは違う気がしていました。少しでも長く生きていてほしい気持ちと、できる限り苦しまないように自分のタイミングで逝ってほしい、という気持ちは、いつもどちらも同じくらいあったからです。ではなんと言うべきだったのか、正解はいまだにわかりません。