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事実、伊周と隆家が事件を起こしたのちに(さすがに出家する前だったようだが)、定子は一条天皇の最初の子を身ごもっていた。

ただし、公卿たちは、道長が定子を邪魔に思っているのを認識していたようで、彼女が懐妊後に、内裏から二条宮に帰るときは、みな道長に遠慮し、だれも定子のお供の行列には加わらなかったという。その後も、長徳2年(996)夏には二条宮が全焼し、10月には母の貴子が没するなど、定子をめぐる不幸は続いた。

それでも、一条天皇の寵愛だけは変わらず、12月16日、定子は第一子である脩子を出産した。そして、翌長徳3年(997)6月、一条天皇は出家している定子を、三后に関する事務を執り行う職曹司に戻した。こうして出家しながら宮中に戻った定子と、そんな彼女を寵愛し続ける一条天皇に対しては、風当たりも強かったようで、藤原実資の日記『小右記』にも、そう思わせる記述がある。

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なかでも道長は、この2人の関係を自分の権力基盤を揺るがすものととらえ、「対策」を急ぐことになった。

徹底して排除された定子の血筋

長保元年(999)、定子はふたたび懐妊した。このため、内裏から竹三条宮に退出することになったが、このとき道長は露骨な妨害工作を行っている。同じ日に宇治への遊覧を企画してそこに公卿たちを呼び、彼らが定子のお供ができないようにしたのだ。

とはいえ、後宮を制さないかぎり、道長の権力基盤は安定しない。そこで、道長はまだ12歳にすぎない長女の彰子の入内を画策し、11月1日に実現させたが、同じタイミングで大きな悩みを抱えることになった。彰子を女御にするという宣旨が下った同じ11月7日、定子が待望の第一皇子、敦康親王を出産したからだ。

焦った道長が思いついたのは、兄の道隆が講じた以上の奇策だった。道隆は中宮が皇后の別称であるのに目をつけ、ほかに皇后がいるのに定子を中宮にしたが、皇后と中宮は別の天皇の后だった。ところが、道長がねらったのは、同じ一条天皇の后として定子に加えて彰子を立てる「一帝二后」だった。