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 菊内くんは、最後にこう結ぶ。

〈じいちゃんが話す言葉は、なぞだらけだけど おもしろくて すきだ。/じいちゃんの言葉は、みんなをえがおにするまほうの言葉だ。〉

 この最後の頁、じいちゃんは歯をむき出しにして笑っている。私は想像した。菊内くんの家族がその土地のなまりを蔑視することなく、なごやかさと笑いのなかで暮らしている姿を。

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 絵本の世界は心を弾ませてくれるので大好きなのだが、手づくり絵本になると、絵本がどのようにその家庭のなかに浸透しているかが見えてくるので、作品を1点ずつ手に取って頁をめくるのは理屈抜きに楽しい。

「複合災害」への警鐘

 11月6日(月)

 広島市平和記念公園にある広島平和記念資料館(原爆資料館)のホールで、「死の灰、黒い雨、二次災害」と題して講演。

 平和記念公園の慰霊碑の右奥にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が柳田のノンフィクション作品『空白の天気図』の今日的意味を再評価して、3月から1年間の予定で、関係資料などの展示と作品を短編ドキュメンタリー映像にして上映する企画展を開催し、春夏秋計3回の特別講演の場を設定してくれたのだ。

『空白の天気図』は、広島が8月6日の原爆被害に加えて、1か月余り後の9月17日に巨大台風(枕崎台風)に襲われ、市内は太田川の洪水でバラック建ての仮住まいが流されたばかりか、呉地域や県西部の大野町などでは大規模な土石流が発生して、県内だけで死者行方不明者二千人余に上った惨禍の全容を描き出したドキュメントだ。

 台風上陸地の九州地方の死者行方不明者は九州全体で442人だったのに対し、なぜその先の広島県だけで4倍半もの犠牲者が出たのか。その大きな要因は、原爆によって通信網が機能しなくなって、広島地方気象台の天気図作成が不十分なものになり、台風襲来の進路予想や暴風雨警報をきめ細かく住民に知らせることができなかったことにあった。まさに原爆被害と自然災害が重なり合った核時代の「複合災害」の最初の象徴的な“事件”だった。だが、原爆の惨禍があまりに巨大だったがゆえに、戦後長いこと8月6日と9月17日を結びつけて論じられることはなかった。この問題に視線を向けて、戦後30年経った1975年に私が綿密に発掘取材をしてまとめたのが、『空白の天気図』だった。

 それから約半世紀、ウクライナでは、昨年6月、南部ヘルソン州で水力発電所のダムが決壊(原因不明)、ドニプロ川沿いの東側のロシア軍占領地域と西側ウクライナ軍維持地域の広大な地域が洪水で水没するという事態が発生。そのなかでも、ミサイルの撃ち合いが続けられた。まさに「複合災害」だ。

 2011年の3・11東日本大震災における東電福島第一原発事故も、地震・津波と重なった「複合災害」だ。

 ノンフィクションのドキュメント作品は、10年、20年と経っても普遍的な意味のあるものにすべきだと考えている私にとって、『空白の天気図』の意義が半世紀経って評価されたことは嬉しかったし、その企画展はまさに時代状況に合うのでありがたかった。

広かった「黒い雨」の雨域

 講演は、二つのテーマに焦点を絞った。一つは、既述のような核時代の「複合災害」の危機であり、もう一つは、広島市の周辺山間部に多くの放射線被爆者を出した「黒い雨」の降雨域が、被爆者による訴訟で最近ようやく拡大を認められたことの意義についてだった。

「黒い雨」の最初の雨域図は、被爆の年・1945年秋に広島地方気象台の宇田道隆技師らが、マイカーのない時代のなかで、自転車や徒歩と芋弁当で広島市北東部の山村を訪ね歩いて、住民の証言を記録するという取り組みでまとめたものだった。その詳細は『空白の天気図』に記録した。通称「宇田雨域」と言われる。それは生々しさのある貴重なデータだったが、被爆者認定の地域を決めるには、地域の狭さとデータ不足の問題があった。

 しかし、厚生省(のち厚労省)は、「宇田雨域」を根拠にして、被爆者認定の地域を実態より狭く設定していた。1970年代から90年代にかけてだ。

広島の原爆ドーム ©show999/イメージマート

 このような状況のなかで、新しい世代の気象学者の増田善信氏(元気象研究所研究室長)が「黒い雨」被爆者の要請を受け止めて、1980年代末に「宇田雨域」より範囲を大きく広げて、より多くの住民から体験を聴き取る調査を行った。証言者の地域は、「宇田雨域」では170地点だったのに対し、増田氏の調査では2125地点に上った。この調査は、定年退職して60歳代半ばになっていた増田氏が科学者としての責任感に突き動かされて、経費を自己負担して行ったものだった。まとめられた「増田雨域」は、「黒い雨」の雨域が「宇田雨域」の約4倍もの地域に及んでいたことを明らかにした。

 その研究論文は、2000年代になって提訴された「黒い雨」被爆者団体による認定請求訴訟の広島地裁判決(20年)でも、広島高裁判決(21年)でも、「信頼できるデータ」として評価・採用され、原告勝訴・被爆者救済に貢献した。そうした経緯を踏まえて、夏と秋の講演では、増田氏の脳裏に「今」躍動しているものを広く伝えたいと思い、予め6月に東京郊外のご自宅で話を伺わせて頂いていた。

 その時、増田氏は99歳。9月には100歳になるという。応接室のソファーで向き合って座っても、背筋はしゃんと伸びているし、語る口調も内容も、よどみなく整然としている。80年も前の戦時中の気象台勤務駆け出しの頃の関係者の名前をフルネームで話す。まだ87歳の私は圧倒されるばかりだった。

 増田氏は原爆被爆直後の混乱のなかにあっても、「黒い雨」の実態を明らかにしようと現場調査をした宇田技師を科学者精神を貫いた先輩として深く尊敬していた。「増田雨域」の調査と作成は、「宇田雨域」を不完全なものとして否定したのではなく、弁証法的な捉え方をするなら、「宇田雨域」をアウフヘーベン(止揚)したものと言うべきだろう。

 私の講演に対し、300席のホールはほぼ満席で、参加者が真剣に耳を傾けてくれていることは、表情からズンズンと伝わってきた。さらにありがたかったのは、御巣鷹山日航機事故で9歳の二男・健ちゃんを亡くした美谷島(みやじま)邦子さんの呼びかけで、様々な事故や災害の遺族など11人が関東・関西などからグループでやって来て、原爆資料館や「空白の天気図」展を見学するとともに、私の講演会にも参加してくれたことだった。

 グループの人たちは、それぞれに安全な社会づくりの活動をしているだけに、核戦争がもたらす惨禍についても、強い学びの意識を抱いて見学し、自分たちの活動の究極の目標は、「核なき世界」という言葉に象徴される世界の平和と安全を築くことにあるのだということを改めて心に深く刻んだようだった。

本記事の全文は、「文藝春秋」2024年7月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています(柳田邦男「いざ100歳まで日記 病は突然やってくる」)。