先週20日、米国の国務省が2017年「人権報告書」を公表した。そこで指摘されていたのは「日本の職場でのセクハラ横行」、まるで狙っていたかのようなタイミングの良さに驚いた。最強官庁と言われる財務省の、そのまたトップの福田淳一事務次官によるセクハラ疑惑が世間を騒がせていた最中だからだ。
渦中の福田氏が辞意を表明した途端、こちらも推し量ったようなタイミングでテレビ朝日が名乗り出た。深夜に会見し、同社社員に対するセクハラがあったと発表したのだ。ところが翌朝、福田氏は疑惑を認めるどころか「全体を見ればセクハラに該当しない」と改めて疑惑を否定した。まったく往生際が悪いとしか思えないのだが、テレ朝の会見が福田氏の態度を変えさせるまでには至らなかったのは、なぜだろう。
篠塚報道局長の感情の無さ
どのような会見であれ、会見とは正確な情報を提供した上で「いかにイメージをよく見せられるか」、「共感を持たれるようにできるか」にかかっているはずだ。個人が特定されるからと、詳しい情報は一切、出さなかったが、それだけが社員を、その人権を守るということではないだろう。今回なら、会見で社員を全力で守るという気概がそこから伝わるか伝わらないかで、テレ朝の問題対応への印象は大きく変わったのではないだろうか。
まず印象的だったのは、会見で見えたテレ朝側の感情の無さである。「セクハラを受けたとされる記者の中に、当社の社員がいる」と述べ始めた篠塚浩報道局長の口調は、落ち着き、淡々としていた。「セクハラ被害があったと判断しました」と言う時も、その口調は変わらない。
「当社といたしましては」と書面から顔を上げ、口調が強くなるかと思いきや「財務省に抗議するとともに、当社社員の人権を徹底的に守っていく考えです」と淡々と述べただけだ。抗議するという割にインパクトに少々欠けるのである。顔を上げて「徹底的に」をちょっとだけ強調して言ったものの、すぐにまた視線を書面に落としてしまい、「守っていく」という言葉を強調することはなかった。