朝早く来ることも夜まで残ることも「労働」とみなされていない
法的に時間外労働しているけれども、使用者が悪質だから対価が支払われていないというブラック企業とは、状況はまったく異なっている。始業時刻よりも朝早くにやって来て、さらには終業時刻よりもずっと遅くまで働いていることが、そもそも法的に「労働」とみなされていないのである。
給特法は、残業しなくてもよいという点でみれば、理想的な法律である。ところが実態としては、先生たちは働いているはずなのに、それが労働と認められない。残業代支払いの裁判を起こしたところで、支払いの判決が下されることも、もちろんない。労働者の立場としては、最悪の状況に置かれてしまっているのが現実である。
ブラック労働に無自覚な教師たち
職員室は、ブラック企業も真っ青なほどに異常な労働環境である。
だからこそマスコミは、連日のように教員の異常な働き方を報道している。また教育行政の対応も進み、昨年12月26日には、ついに文部科学省は「学校における働き方改革に関する緊急対策」を発表するに至った。
ところが、どうにも職員室にいる先生たちが、この盛り上がりに付いてきているように見えない。むしろいまも、夜遅くまで働き続ける教員を讃える声や、部活動をもっと充実させようという声が聞こえてくる。
よくよく考えれば、それも無理はない。職員室には、「教員は子どものために献身的に尽くすものである」「部活動指導してこそ一人前」という文化がある。労働時間や給料に関係なく、子どもに向き合う姿が美化される。
いつも自分の時間を削って遅くまで仕事を頑張り、それが翌日に子どもの楽しそうな表情や真剣なまなざしとなって返ってきたとき、教員はその苦労が報われる。それをマスコミやあるいは私のような外野が、「ブラック」と呼んでいるのだ。
上限規制のなかで「教師冥利」を
子どもからそうしたポジティブな反応を得られるのは、まさに教職の大きな魅力の一つである。それは、私自身も大学教員として同じことを感じる。私が出した課題に対して、学生が熱心に取り組む姿、それを讃えたときに学生が返してくれるうれしそうな表情は、何にも代えがたい充実感を私に与えてくれる。
だが、そうだとしても、私はその「教師冥利」とも言える充実感は、一定の上限規制がかかった時間内で得られるのが最善だと考える。そのなかで、子どもの楽しそうな表情や真剣なまなざしに出会えることこそを目指すべきである。
教員というのは「教育者」である前に「労働者」である。労働者として健全な環境のもとで仕事ができてこそ、教育者としてじっくりと子どもに向き合えるのではないだろうか。