1966年にはたった1年で38人が谷川岳で命を落とした
そこにかけたクライマーたちの情熱は、当時を知らない私のような世代からすると“異常”といってもいいほどだ。谷川岳全体で最も多くの死者数を記録したのは、1966年の38人。
毎週1人に近いペースである。このころ、日本全国の山岳遭難死者数は200人ほど。全国の山岳遭難の5分の1がひとつの山で起こっていた計算になる。こんな山は、日本の山岳史上ほかにない。
あまりにも多くの人が死に、大きな社会問題ともなって「魔の山」として悪名を轟かせてしまった谷川岳だが、1980年代以降は遭難がガクンと減った。岩壁のルートがほぼ登り尽くされ、同時に、谷川岳のクライミングは時代に合わなくなり、訪れるクライマーの数が激減したのである。
1980年までの50年で700人ほどの死者数を記録した谷川岳は、1980年以降、現在に至るまで四十数年間の死者数は100人ほどにとどまっている。
その間、日本百名山ブームや山ガールブームが起こり、谷川岳に通う人たちの勢力図はガラッと変わった。ロープウェイから登る平和な登山道には、年々登山者の数が増え、一方で、一ノ倉沢のかつての人気ルートは、一部をのぞいてクライマーの姿を見ることはなくなり、元の自然に帰っていこうとしている。
今では谷川岳というと、開放感いっぱいの稜線の風景を思い浮かべる人が大半であって、エイリアンのようにおどろおどろしい一ノ倉沢を連想する人は少数派であるはずだ。
私は谷川岳を訪れるたびに慰霊碑によく寄ってみるのだが、そこに残された空白のスペースに大きな変化は見られない。根強く残っていた魔のイメージはようやく風化していこうとしている。