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 谷川岳で初めて遭難死者が記録されたのは1931年。慰霊碑が建てられた1967年にはすでに500人ほどにまでのぼっていた。その後もハイペースで増え続けたため、名前を刻むスペースがなくなってしまい、左右を拡大増築して現在に至っている。死者が出るたびに名前を刻む作業は今でも行なわれており、碑にはまだ100人分ほどの余白が残されている。

 慰霊碑の横には、人物の顔が刻まれた石碑がいくつか立っている。そのひとつ、ハーケンを模した特異な形をした碑が目を引く。これは「谷川岳のドクトル」として知られた石川三郎医師を記念して建てられたもの。地元水上の医師であった石川氏は、遭難事故があるたびに山に入り、この広場で遺体の検死を行なったのだという。ここは、そうした血塗られた悲しい歴史の現場でもあったのだ。

標高差約1000メートル、幅も1000メートルほどにわたる絶壁

 なぜ谷川岳がこんな歴史を持つことになったのか。それはひとえに、東面に巨大な岩壁群を持っていることによる。谷川岳の東面は切り立った岩壁になっており、そのスケールと登攀難易度は国内でも屈指。北アルプスの穂高岳、剱岳と並んで「日本三大岩壁」ともいわれており、ヒマラヤなどの高峰を目指すクライマーたちの格好の腕試しの場となってきた。

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数百人が命を落とした一ノ倉沢の険しい絶壁

 いくつかある岩場のなかでも特に有名なのが、一ノ倉沢。山肌がえぐり取られたような奇怪な容貌をしたこの谷は、標高差約1000メートル、幅も1000メートルほどにわたって扇型に広がった岩の大伽藍となっている。

 単純に自然の造形としても圧倒的であるが、この岩壁が数百人の命を飲み込んできたことを知ると、見方はかなり変わるだろう。私などはいつもエイリアンを連想する。まがまがしくもおぞましい、巨大なエイリアンにロックオンされて身動きできなくなった小動物のようになってしまうのである。

谷川岳山頂(ふたつある山頂の低いほう。「トマの耳」1963m)

 一ノ倉沢には100本ほどの岩登りのルートがあり、1950年代から70年代にかけて、血気盛んな若者たちが初登攀競争を繰り広げた。時代は、ヒマラヤのマナスル(8163m)を日本の隊が初登頂したことで巻き起こった登山ブームのただなか。

 ヒマラヤに夢を抱く若者が、まだ未踏のルートが多く残されていた谷川岳にターゲットを定めて押し寄せた。この結果、日本の登山史に刻まれるような歴史的な初登攀がいくつもなされることになるのだが、その陰で、岩壁に敗北した数多くのクライマーが命を落とした。