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《追悼・徳田虎雄》「一泊5.5万の特別室で…」盟友が明かす徳洲会グループ“病院王”の闘病生活

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「運転で気に食わないことがあると後部座席からドーンとシートを蹴り上げる。それで、運転手には『赤信号でも行け』と。今だとパワハラでアウトだけど、なんともいえないエネルギーと突破力に溢れた人でした」

 7月10日、日本最大の医療法人「徳洲会」の設立者・徳田虎雄氏が86歳で死去した。稀代の病院王との思い出を振り返るのは、徳洲会の特別顧問を務めた“盟友”石井(いち)()元参議院議員(87)だ。

盟友・石井一二氏

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医療充実を推進した徳田氏

 奄美群島・徳之島の貧農の家で育った徳田氏。苦学して大阪大学医学部を卒業すると30代の若さで大阪府松原市に第一号の病院を設立。以後、猛烈な勢いで徳洲会グループを拡大させた。徳田氏の伝記『ゴッドドクター 徳田虎雄』の著者でノンフィクション作家の山岡淳一郎氏が明かす。

「徳洲会が急速に病院を増やした1970年から80年代は、医療砂漠と呼ばれる“病院が存在しない地区”が多かった。『生命だけは平等だ』『年中無休、24時間診察』をモットーに、離島や僻地の医療充実を推進した徳田氏の功績は非常に大きいです」

 一方で、急速な拡大によって各地で地元の医師会との衝突を生み出した。

「その衝突を教訓に、モットーを実現するためには、政治力が必要だと気付いた徳田氏は、医療改革を掲げて衆院選に打って出た。故郷の徳之島を含む衆院奄美群島区から初めて立候補したのは83年。3度目の挑戦となる90年に初当選を果たし、その後、当選4回。しかし、衆院議員を務めたなかで、医療問題への目立った提言は特になく、『医療空白地帯を徳洲会で埋める』という信念だけで動いていたという印象です」(同前)

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