協会からの援助もなく遠征費はアルバイトで稼いでいた
――スポンサーや協会の支援はすぐに得られたんですか。
野口 いいえ。当時はクライミングの知名度はほとんどなかったし、海外遠征の援助もありませんでした。だから、遠征費はアルバイトで稼いだり、足りない部分は父に援助してもらったり。航空券や宿泊先のホテルも自分で手配していました。
でも、一番気を使ったのが出場のエントリーシートを書くとき。全部英語だし、その頃の私は英語もさほど得意でもなかったから、会場に着いて「書類の不備で出場できません」と言われたらどうしようと、試合のたびにドキドキでした。空港から会場に向かう時も、本当にこの道でいいのか、この電車で間違ってないかと緊張しっぱなし。だから試合が一番気持ちが楽でした(笑)。
選手代表でプレゼンも。東京五輪で絶対にメダルを獲りたかった
――手探り状態で活動していたにも関わらず、W杯で21勝、年間総合チャンピオンには4度輝き、「クライミング界の女王」と言われるまでになりました。
野口 ただ楽しいという思いでやってきただけなんですが、東京五輪でクライミングが正式種目に決まってからは、クライミングという競技をいかに多くの人に知ってもらうかに意識が向きましたね。
クライミングが東京五輪で正式競技になるかどうかの国際会議の時、選手代表でプレゼンさせていただいたんです。その責任もあって、いかにしてこの競技の面白さを多くの人に伝えられるかを考えるようになりました。
それには東京でまずメダルを獲ること。初めての五輪、自国開催。コロナ禍で無観客という特殊な環境だったけど、メダルを獲るために「掴んだ突起は絶対に放さない」という思いだけで登っていました。
――見事銅メダルを獲得し、その強さを証明しました。最初で最後の五輪となりましたが、現役引退については悩まれましたか。
野口 「もう少し長く続ければよかった」とはまったく思わないですね。むしろ長くやったなって(笑)。ただ、「もっと早くクライミングが五輪競技になっていたら、何回出られたんだろう」とは思います。私が19~20歳くらいの時に出場していたら、絶対金メダルを獲れたのにな、とも。でもそれは本当に巡り合わせで、自国開催の五輪が引退試合になったことは、今でもすごく喜ばしいです。
今は、クライミングの普及活動に集中しようと思っています。ユースの育成もやっていきたいですね。